書評日記 第98冊
ラーオ博士のサーカス C.G.フィ二−
ちくま書房

 えーと、今日は何日なのですか? 実を云えば、俺の「書評日記」既に日記ではありません。書き溜めしております。その、俺の場合、この日記は本の紹介というか、自己分析というか、「作品」というか、そういうものために書いているので、毎日更新ってのは「躁状態」が続いているみたいで嫌・・・とか書いてしまうと、巷のwww日記を敵に回すのでしょうか。いや、そんなことはないと思うんだけど。だって、人の日記は毎日更新しているのが一番おもしろいし。ま、そんなところでしょう。
となるとこういう風な日記は・・・よーわからん。 そうそう、「下品なプログラマ」としては、何かを書かなくてはいけないのでしょうか。別になあ、読者が増えているわけでもないし、やってみたわりには、恩恵が少なかったです、はい。やっぱり、20人前後で十分です、俺は。大体、本読みがそんなに、というか、こういう地味な紹介記事(?)が好きな人って、そう多くないですよね、しかも毎日。多かったら、世の中もうちょっと過ごしやすくなっているハズです。「エンターテイメント」であれば、俺は支持します。でなければ、パスだな、パス、蹴り。
 そーいえば、「現実」での恩恵は多大なものがあったな、うん。なんか、俺の周りが目まぐるしく変化した。俺自身も変化した。そういう意味では「感謝」したいとか云ったら、殴られるだろうか。

 えーと、最近、萎え萎えの状態なので、ちったあ元気を出そうと、あまり人が踏みいれ難い分野を読んでみています。ま、ね、俺は、基本的にこーいうのが好きなのだ。

 ちょっと、元気を出すために文体を変えよう。

 さて、本日、紹介する本はG=C=フィ二ー「ラーオ博士のサーカス」(筑摩文庫)である。のっけから注意しておくと、これは「フリーク」な本だ。「フリーク」で解りにくければ、「奇形」だな。
 「サーカス」というものから連想するのは、現実から遊離したところに見られる幻想の世界、そして、人の卑猥な快楽をえぐるところにあるモノ、といったところであろうか。人はそれぞれ内に秘めたどろどろしたものがある、と云っても過言ではないし、精神医学もそういったところから出発している。ただ、その内面を無理矢理に隠蔽しようとすると、思わず別な部分にはみ出してしまう。

そのバランスをとるために、うらびれたサーカスがあり、そして、こういう本が読みつがれている、と俺は思う。
 本の内容は、そういった「フリーク」な部分の羅列であって、あまり小説という形態をとっていない。ま、むしろ、そういう図鑑的な読み方が意図されているのだろうし、実際、本の最後には「カタログ」と表して、登場人物や登場したモノについて、ちょこちょことした解説がつけてある。
 そう、この「カタログ」については、訳者のあとがきに面白い文句が書いてある。
「わかりきった事についての解説、読まなければよさがわからない」
 末尾にある「カタログ」は、この本に出てくるモノの「読み方」みたいな感じで書かれているのだが、ある意味では読者を束縛するものとして不要な感じする。しかしだ、この「カタログ」あったらばこそ、「不要」と感じるのであって、もし、「カタログ」が無かったならば、「不要」と感じたであろうか。そういうことを訳者は書いている。それに俺も同感であった。もっとな、言葉を使わなあかんのよ、多分。

 実は、「ラーオ博士」は1935年出版であるから、かれこれ、60年前になる。こういう不思議な小説を読めたことに、俺は感謝する。うん。ちくま文庫、偉いぞ。でも、最近の棚に無いのはどーいうことだ、え?

 そうそう、久しぶりに〆の言葉。
 というわけだから、こういう本を紹介する俺にも感謝しろよ、諸君諸嬢共よ。

update: 1996/09/09
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