書評日記 第124冊
四次元の世界 ルディー=ラッカー
工学舎

 先日は「2次元」の話だったので、今日は「4次元」の話。イエ、嘘です、「2次元」の話はさっき書いたばっかりです、ハイ。

 「4次元」ってのは、現在の「3次元」の世界、つまり、xyz座標にもうひとつ座標を加えるわけ。そこに、単純にw座標なるものを加えて4次元とする場合と、いまある時間という概念を加えて4次元とするパターンに二分されます。前者の方は、単純に次元を重ねるだけだから、3次元の数学を拡張するだけで事足ります。「点」、「線」、「体」の次に「胞」というものを使って、4次元の立体を表すわけ。いろいろ、幾何学的に4次元ってのは面白い。4次元の「胞」を3次元で表す方法も試みられています。ちょっと以前に勉強をしたんだけど、ね、忘れてしまった。日経サイエンスの別冊でその特集があったはずです。詳しくはそちらの方を見てください。4次元を真面目に扱った数学書もあります。
 時間を加えて「4次元」にする場合は、そう、「タイムマシン」という概念に行き当たります。時間世界を往復するということは、x座標を往復するということと他ならない。そういう意味での「4次元」です。「タイムパラドックス」という概念がありますが、ここで云う「4次元」では起り得ません。何故か。単純に言えば、ここの設定での「4次元」で「タイムパラドックス」という出来ないことが起り得るということは、x座標を行ったり来たりしただけで、パラドックスが起こるというのと、同様な訳です。つまりは、この設定での「4次元」では、タイムパラドックスなるものは起こり得ないわけね。この法則内では起こらないわけです。
 うーむ、一体、何を云いたいのか。俺もちょっと解りにくいのだけれど、「矛盾」を感じる時っていうのは、結局のところ、その法則を無視して、勝手に法則を打ち立てた時に起こる現象であるということ。意見の食い違いとか、自己の葛藤とか、あれこれ悩む時ってのは、結局のところ、根底に流れている頑固なる法則性を忘れて、勝手に曖昧な法則を打ち立てしまった時に起こるんじゃないかなあ、と思う次第。ま、尤も、「人それぞれ」の価値感があるわけだから、意見の食い違いってのは当然なんだけど、その根底というものが、人間である限り同じものを示しているとすれば、よく冷静に考えてみれば、「法則」を思い出そうとすれば、自ずから結論は導きだされてくるんじゃないかあ、と思う次第。

 んで、「四次元の世界」は、先に云うところの、前者の4次元、つまり、単にw座標を加えた形での「4次元」の話です。難しいと思わないで下さいね。法則は簡単なんです。単純に、3次元から4次元に軸を一本拡張しただけなのです。
 「4次元」の例で一番、イメージしやすいものを話しましょう。
 まず、「3次元」世界での「球」を考えてください。まん丸なボールです。これをね、一枚の壁に通すわけです。CTスキャンみたいにゆっくりと通す。壁は「2次元」ですね。さて、どうなるでしょうか。壁ににボールを通すと、壁は、まず一点ができて、ちいさな円が出来て、だんだん大きくなって、最大の円になります。そして、再び、ちいさな円になって、一点になって、消えます。イメージできますか?、これが「3次元」の物体を「2次元」に通した結果です。「投影」と云います。
 さて、同様に、「2次元」の世界での「円」を「1次元」の世界である「線」に通してみましょう。紙に円を書いて、紙の上を平行に定規で上から下へと流すような感じです。これは実際にできるでしょう。そうすると、定規の部分ってのが「2次元」なわけです。で、上から下へ動かすと、まず、一点が接します。そして、だんだん幅が広くなって、最大の幅になって、再び幅が小さくなって、一点になって、消えます。イメージできるでよう?、これが、「2次元」の物体を「1次元」に通してみた結果です。
 さて、先の結果から、3次元の物体を2次元に通す行為と、2次元の物体を1次元に通す行為が非常に良く似ていることがわかりますね。これが「相似」であり、それぞれが「対応」していると云います。ここまで解ると、4次元の物体を3次元に通すとどうなるか「類推」することができると思います。
 では、やってみましょう。想像して下さい。
 ここに4次元の球胞があります。これを3次元の世界に通すわけです。あなたの目の前にまず、点が現れます。そして、小さな球体になります。だんだんその球体が大きくなります。最大の球体になって、そして、だんだん縮んでいきます。そして点になって、消えます。
 ね、簡単でしょう。「幾何学」というものは、こういうものです。そして「思考実験」というものは、こういう類推をして、想像力逞しくして、でも一定の法則を満たして考察する実験の仕方です。

 んーと、俺は一体何が云いたいんでしょうか。多分ね、こうでしょう。
 「蘊蓄」とか「ネタ」だとか、「知識」とか云うけれども、それが断片的に存在しているだけでは、なんら価値もないし、面白いものではないんですよ。俺の書評日記は、確かに、毎日毎日、傾向の違った本を取り出しては、紹介しているし、その時その時に「本」にまつわる思い出なり、知識なり、蘊蓄なりを話しているわけですが、結局のところ、「俺」という存在から出ているものであるから、ひとつの繋がりがあって、そして、こうやって毎日、たくさん云いたい事があるのは、物事はすべて繋がっているんじゃないか、関連があるんじゃないか、と思うからです。そういう「繋がり」を大切にしているから、さらに、たくさんの本を読もうと思うし、いろいろ、そう、本当にいろいろな知識をため込むことが出来るんだと思う。うーむ、なんか、相当、傲慢なことを云っているようだけど。ま、この書評日記を読んでいらっしゃる諸君諸嬢は認めて下さるでしょう。
 120冊も紹介したけど、まだまだ、紹介したい本はあるし、まだまだ、云いたいことはたくさんあるわけです。そう、あなた方は、未来の何者かの卵を観てるのかもしれない。なんとなく、俺はそう思うわけです。まあ、それがさ、俺の唯一、できることだと思うし、いろいろ迷惑をかけた、恩返しだと思うから。・・・とか、なんとか。

update: 1996/09/09
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