書評日記 第150冊
機動戦士ガンダム サンライズ

 何と、最近だらだらと文章を書いて過ごしていると思ったら、もう150冊めになっている。いつも通り、これも「通過点」に過ぎない。そう、以前、言われたことがある。
 「私はあなたの「通過点」かもしれない。」
 そういえば、こういうことも言われたことがある。
 「腰掛けじゃないの?」
 どちらも辛かった思い出のひとつ・・・なのだろうか。よくわからないけど、ばたばたやっている割には何も劇的には進展していないような気がするのは気のせいか?違うか。結構、自分のライフスタイルも変化したし、思想も変化した、環境も変化した。全てが崩れ去って再構築されつつある。最近、目の醒める想いを幾度となく経験する。忘れ得ない体験をたくさん積むには普通はこんなスピードではないと思われるのだが・・・。あ、そうそう、「普通」っていうのはないんでしたね。そう、普通の人生というものもなく、普通の恋愛というものもない。そもそも「普通」なんてものは、統計学から出てくる「平均値」に過ぎないのであって、その無味乾燥な数値に心ある人が縛られる必要はない。
 一体、「普通」ってのはなんなのだろうか。先に云った通り、統計学的な意味合いもあると思う。でも、なぜか、ひとは「特別」を嫌がる。集団の中にいると、ある程度の特異性は認められるものの本当の意味での「特異性」を持った者は排除される。もちろん、安定した集団を保持するためには、そういう特別な者は基準からはずれてしまうので、いわゆる「普通」の人達には判別しかねる部分が多くでてくる。つまり、未知の部分が多くなって、そういう未知の部分を持っている者に対して排除しようという意識が働く。そう、これは動物社会でもおこる。奇形のサルは、集団から追い出される。ボスに楯突く若いサルはボスに敗れたとき、集団から目を向けられなくなる。
 ただ、集団には必ず「トリックスター」が存在する。なぜならば、集団とは安定を求めるものの、その保守的なものだけではただ朽ちてしまうだけに過ぎない。これは経済学の「再生産」の概念に詳しい。単純再生産の社会では、安定はするものの、発展性がなくなる。果たして、新たに若い者がその社会に参入しようとするとき、新たな価値観が生まれる。それこそが、カタルシスに陥ろうとする集団を救う。そういうある程度の揺れが集団には必要である。集団は緩やかな変化を好み、その変化たる者を受け入れ、少しずつ変化していく。そして緩やかな世代交代がおこる。
 しかし、「トリックスター」の存在がかつて無いほどの集団の価値観を変化させる時、その集団に含まれる者達は戸惑う。集団を維持しようとする者、安定した集団を捨て去り新たな価値観に帰依するもの。かつての「キリスト」がそうであったことは衆知の事実だろうと思う。イタリアのカタコンベ(初期キリスト教徒の弾圧故の墓場)を見てきた俺は思う。彼でさえ生きているうちに為し得なかったことを、俺は為し得ようとしてるのか。不遜な考え、傲慢な考えが浮かぶ。
 でも、明らかに他人とは違う自分、「普通」とは違う自分を思った時、そう思わざるを得ない時がある。歩みが早く、思考が飛ぶように走る。

 うーむ、神懸かり的なことを書くのは「至高経験」をする者の特徴だとマスローの「創造的人間」を読んだ時から、そういうものを書くことに恥ずかしさを覚えなくなった・・・まあ、あとで、急激な鬱状態に入るハズだが、これは仕方が無い。あきらめよう。あっこさんもそうらしいし。

 さてと、本日の一冊であるが・・・一冊というよりもアニメを紹介しよう。誰でも知っている「機動戦士ガンダム」である。
 実は、リアルタイムで「ガンダム」を見てはない。確か、俺が小3の頃にTV放映されたはずなのだが、当時の俺はTVを見なかった。というよりも、7時前のTVを見せてくれなかった。確か、TV放映は5時か6時だったような気がする。
 俺が「ガンダム」を知ったのは、小5の頃だが、実際に見たのはアニメブックだったことを告白しておこう。そう、最近はどうかわからないが、大判の本にTVアニメの一コマ一コマがあって、その脇に台詞が並べてある。喩えるならば、映画の絵コンテを見て情景を想像していたわけである。そうなのだ。俺は、「ガンダム」をまさしく「本」として読んでいた。絵本として読んでいたに過ぎず、それは、ただ流れてくるTVからの絵と音ではなくて、何度も読み返すことのできる「本」として、自分から能動的に動かなくてはならない「本」として出会っていた。だから、こんなに俺に影響を与えたのだろう。そう思う。
 俺の「目の鱗」はどっかに行ってもらって(そう、俺の「目の鱗」はこうやって物を書いている時に起こることが多い。だからこそ、「たくさん書け!」とすすめるのだよ。)、一番最初の話とつなげよう。
 果たして、アムロの示すところのニュータイプとは何であったのか。勘が鋭く、未来を見通す力があって、孤独で、それいても、最終的には皆に受け入れられるストーリー。それはまさしく、「ニュータイプ」の名が示すとおり、新しい人類の誕生であり、また、新しい価値観の誕生である・・・と当時の俺は思ったわけだ。まあ、今でも思うし、そういう「ニュータイプ」という言葉が俺には魅力的なわけ。そうなろうとして、ここまで来た結果がさあ、こういう状態なんだから、むう、「ニュータイプ」は辛いぜ。・・・なぞと、書くとなんだか、単なるアニメファンのように聞こえるけど、諸君諸嬢はどう思われるであろうか。俺が単なるアニメ小僧に見える?

 最近の日記で目につくのは、古典の引用を用いてカッコをつけているものが多い。甘い甘いぞ、日記者達よ。かつての古人達に影響を与えたのはそういう言葉であったろうが、今の俺達に影響を与えたのは子供の頃に見たTVアニメやらSFファンタジーとかRPGゲームじゃないのかな?
 少なくとも、今の子供たちは、「古典」を読まないと思うけどなあ・・・なぞと、子供な俺は思う。
 
 そう、好きな人に与えた科白がこれだ。
 「あなたのかわいい頭を悩ますでない。」
 栗本薫の「グイン・サーガ」でグインが云った一節である。
 こういう言葉の方が今のあなたには必要だと思う。

update: 1996/09/09
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