書評日記 第165冊
見晴らしガ丘にて 近藤ようこ
ちくま文庫

 女流というのは変な言葉で、わざわざ作家・漫画家の上に冠することもないと思うのだが……、まあ仕方がない。この場合は、敢えて冠するのがいいと思う。
 女流漫画家である近藤ようこの「見晴らしガ丘にて」を紹介しよう。
 
 ちょっと余談であるが、俺は漫画だろうと小説だろうと、それほど区別はしない。一般的に漫画を下に見て小説を上に見る傾向があったり、文庫本を下に見てハードカバーを上に見る傾向があるのだが、そんなことは無い!と申しておこう。
 まあ、ReadMe!のフリートークで「作家になるならば、国文関係の本を読め!」(本の名前は忘れた)と薦められたが、俺としては「国文関係の本を捨てよ!」の精神でやってきていると云っても過言ではない。文系の人達は何故か、そのような古典や所謂評価の固まった文学作品(?)を褒め称える。何故なのだろうか?
 俺が思うに、その方が「楽」だからではないだろうか。確かに大学で研究をするならば、そのような枯れた作品が必要であるが、今、我々の生きている世界はそれだけで出来ているわけではないのは確かなことだろうと思う。文庫本なり、漫画なりの一般に広まっているものを捨ててしまって、何が幅広い読書層なのだろうか。彼の薦める本群の中に、そのような大衆文学はなかった。漫画もなかった。果たして、彼の望む作家像とは何だったのだろうか。まあ、「型にはまった作家」であることは確かなことだ。
 ということで、そういう作品は後回しということ。今の俺は、もっとたくさんの種類の本を読みたい。生きている本を読みたい。同世代の人達が作っている作品に出会いたい。その一心で「本」を読んでいる次第である。
 だから、主に文庫本を読むのはそうなんだけどね……、いやはや、彼らに通じるだろうか?

 さてと、本題に戻って、近藤ようこの作品であるが、非常に女性らしい作品を描くことを示しておく。まあ、その辺が男性である俺にとって「女流」の2文字を冠させる所以なのであるが。
 この本に収録されている作品は、男女の関係を女性の側から見て、そして、まことに様々な女性の行動の仕方が描かれている。
 松浦理恵子があとがきを書いているのだが、彼女が云うには、「いろいろな問題があって、いろいろな解答がある」部分を強調している。
 俺から見ると、女性は奇妙な行動をする。非常に不可解で、非論理的で、感情的で、なおかつ、現実的で。俺は男性だから、近藤ようこの描く作品をそう読むのであるが、果たして、同性である女性は彼女の作品をどう読むのであろうか。

 ただ、そう、はっきりと解かるのは、この中の作品で出てくる女性達は皆「真剣」なのである。他人から見れば奇妙な行動をとっているように見えるけど、彼女達は彼女達なりに真剣に考えて、行動を起こしているのだ。
 それが、なんというか、男性である俺にとっては「かわいらしく」見えるのであるが、どうだろうか。あなたには解かる?

 そうそう、文学的には「初恋」が優れているそうだが、俺としては「なつめ屋主人」が最高である。
 彼女の行動は、まさしく、真剣なわけだから。

update: 1996/12/11
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