書評日記 第192冊
ナチュラル・ウーマン 松浦理英子
河出文庫

 普通、男性は肉体的に快楽を求め、女性は精神的に快楽を求める。まあ、その辺は、男根という集中した快楽中枢を持っているため、とも云えるし、単純に射精という解かり易い手段に執着するためかもしれない。反して、女性の場合は、俺には一生解からない筈なのだが……どうも、これがそうなのであろう、という状態を知っているらしい。「らしい」というのは、まあ、確認しようが無いわけで、とすれば、そうなのだ、と云っても過言ではないかもしれない。

 「ナチュラル・ウーマン」を読んでいたのだが、イってしまうのは何故だろうか。男性快楽の頂点である射精に至るのではなく、腰が砕け、足が震え、お腹の中が熱くなる……というのは、高橋鐡語るところの女性快楽の表現である。
 ただ、まあ、俺の場合、想像力&思い込みが強い方なので、果たして、これがそうなのかは疑問の余地が残る。
 云えるのは、肛門快感とは違う部分を感じるのは、まあ、本の読みすぎというところなのかもしれない。

 「変態的な」という冠詞を頂戴した。
 「冠詞」ということは、形容詞のように普遍なものではなく、まさしくそれに冠する表現……という意味で言ったのかどうかはさだかではない。それにつけても、最近の俺の語句の使い方は、フロイト学派が喜びそうな表現ばかり、なのは不思議なところである。
 まあ、素直なところを語れば、「したい」、「したくない」の欲求が一次のものであれ二次のものであれ、正しく本能を理解し利己的な遺伝子の望む「モラル」に従いつつ、「気持ちいい」ことを行動の中心に据えれば、表現の仕方が、多少(?)「変態的」になるのは仕方がない、というところであろうか。
 ただし、これらの表現を日常会話で使うのは、俺としてもためらわれるし、それが社会生活の「モラル」だと思えば、この書評日記でのみ、つまり文章としてのみの用語に止めておくのは、自己表現にしろ他人からの評価にしろ、有利に働くであろうことは気づいているつもり。

 ああ、つまりは、精神的に「レズ」ではないか、と思うことがある。

 肉体的に男性としての性を持っているにもかかわらず、「レズ」という表現を使ってしまうのは、内面的に女性の部分を残しつつこの歳に至ってしまった、つまりは、思春期にそれらしい行動を起こさなかった歪み……なのか、それを許容するための自己防衛による思考結果なのか、俺自身は断言しかねるし、断言することはできない。
 ただし、敢えて、自己弁護をさせてもらえれば、Y染色体を持つ男性というものは、すべからく女性の奇形であるという指摘を思い出す。Y染色体は男性のみの病気を産み出す。人類の半分は男性ではあっても、生殖行為による繁殖を中心に考えれば、男性という性はそれほど多くは必要ないのではないか、という結論に達してしまったのは、高校生の頃だったような気がする。
 実は、犯罪者にYXXのような「超男性」と呼ばれる染色体の組み合わせがあることを諸君諸嬢はご存知だろうか。男性より男性的であり、悪知恵に長け、暴力的に事を運び、色欲を望み、自己保存本能があるのか無いのか解からないが、ひたすら反社会的に行動をする者達がいることをご存知だろうか。
 実は、時代が違えば彼らは「軍使」や「英雄」となっている筈の人物である。逆にいえば、戦国時代の英雄、維新の中の寵児達は、すべからく犯罪者になる素質を持っているわけだ。

 主旨はこうだ。
 俺は、自分を「偉い」状態に保ちたいと必死になってやってきた。それは、尊敬を得る対象であると同時に、排斥の対象でもあることを意識していた。ただ、それでもなお、人としての集まりに興味を持ち、それに加わろうとするのは、集団の中にこそ俺自身の価値観があったからである。そのために、集団の中の普通を意識しつつも、非普通であること、つまり、何処か変な部分を持つことにより希少価値を己に持たせることで、集団の中の他人の目を己に向けさせることを実現させて来たのである。
 その結果が、今の俺の状態である。

 果たして、今の俺には不安が少ない。
 これは自己の不安定な状態こそが、今の自己を形作ったのであるという確かな答えを得たからである。……というか、そういう「思い込み」を得る手法を得た、というのが正しいかもしれない。

 今後、俺の行動はどうなるのか、といえば、以前よりももって計算ずくでいくのではないか、と思う。
 それは「狡猾」という負の印象を与えるかもしれないが、これを云うことで「謙虚」なる印象を与えられるのは……うはははは、ま、そういうことです。

 考え過ぎはよくないね、ということか。

update: 1997/01/12
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