書評日記 第216冊
勘九郎とはずばなし 中村勘九郎
集英社文庫

 七光り故のレールの上に乗る勇気を評するのか、その決められた歌舞伎の中の流れに憧れを抱きつつ嫌悪を求めるのか、他人の考えは良く解からないが、生きねばならぬレールの上に素直に楽しさを見つける勘九郎の姿は、やはり、幼き頃から培われた人生の決定性と其れに従い其処にこそ面白さを見出す人物というものを感じざるを得ない。
 無論、そのような人物を形成したのが勘九郎を取り巻く役者達なのであるが、勘九郎自身の感想よりも、歌舞伎役者としての勘九郎の姿にこそ、この本の面白さがあり、それこそが勘九郎自身の魅力であるといっても過言ではあるまい。

 世襲制の強い世界で反発するのは体力がいると思う。二歳の頃から初舞台を踏み、200という膨大な役をこなして来た彼を客観的に見れば、歌舞伎役者以外には選択肢の無かった彼の人生を思う。これは、悲哀ではなくて自らの意志に肯定的に生きる事の良さを示していると思う。もし、勘九郎が自己を認めた頃に、別なる職種を選んだとして今の勘九郎が得られただろうか。つまりは、サラリーマン然となり一般職に就業する彼の姿を考えるのは難しいということだ。反意にせよ同意にせよ、息子にとって父親というものは、絶対的な価値を含んでいるということである。また、父親に於いても、息子に対して何らかの期待を込めたり、彼の人生の中で培ってきたものを伝えようとする飽くなき意思を突きつけたりするのは、生まれてきた時より付き合っている父親の願いなのかもしれない。その意志に身をやつすことを周りの者が肯定するか否かは問題ではなく、育ちにおけるひとつの流れの中で人生の職種というものが決定されるのである。其れが勘九郎にとっては、歌舞伎役者であり、はまり役であるとしても過言ではなかろう。

 前半の勘九郎自身の個人的な内情よりも、歌舞伎役者としての勘九郎の語りが俄然流暢であるといっても如くはない。其れは一般の家庭から見られる普段の勘九郎は、さほど一般と変わらぬところに原因がある。しかし、其れは当然の事なのである。
 歌舞伎役者として全生命を賭けてるに足る人生を甘受している勘九郎の姿は、女形のしぐさ、科白まわし、稽古の姿などを語るところに現われてくる。其れは、仕事に対して完全に没頭できる仕事人に似ている。ただし、忘れては為らないのは、仕事人に於いて仕事はは社会の流れに従うに過ぎない流動的な作業をこなしているに過ぎない。其処に気付いてしまえば、明らかな虚しさが伴う。現代社会から離れた歌舞伎の世界で、先のような熱心事は白痴の所業だと云ってもおかしくはない。金銭と単純な快楽のみを追求するしかない現代人に於いては、その研究熱心さは阿呆の所業に見えると思う。
 ただし、素直に見れば、より神髄を突こうとする人生の素晴らしさに寄り添おうという態度は、それだけで善しとする人生のシンプルさに付き従うことだと思う。芸事のみに汲々となって、熱心な稽古を続け、妥協をしない仕事を続ける、また、妥協の出来ない仕事というものは、真剣勝負の連続が故に其れを疑う余地が無くなる。つまりは、倒れるまで追求する熱心さがあればこそ其処に居られるのであり、其れこそが幸せなのである。

 定年の無い職業は沢山ある。そもそも人間としての定年とは「死」のみであるし、そもそも年老いたから休もうなぞという年金制度に頼るサラリーマン然とした社会福祉への寄り係り、社会への貢献度を自らが計るようになるのは、其れこそが阿呆らしい所業ではないだろうか。
 幾年続くか解からぬしても、76歳にして志半ばという父親を持つ勘九郎が其れに追随しようとしてもおかしくない。

update: 1997/01/30
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