書評日記 第219冊
女神 三島由紀夫
新潮文庫

 言葉遊びをするにしても、知的さが無いと面白さは半減してしまう。其れは背景に潜んでいる深い洞察と大量な知識により得られるものだと思う。知識とは云え表面的な事象だけをかき集めてしまったものには価値は無い。つまりは、心象深く根差した所にある関連としての知識、浮遊しない知識との結合が、言葉遊びとしての小説の面白さを生み出してくる。其れは記憶を大量に持ち、其れに関して常に考え続けることによって得られるのかもしれない。
 即ち、三島由紀夫著「女神」にある短編を読みつつ、ギャグとしての笑いを得られるのは、知的な言葉遊びに興じる彼の姿が其処に見えるからだと思う。

 予定調和を重んじるように、童話としての味わいを「接吻」や「白鳥」に見出すことが出来る。前者はアンデルセンの童話を模して詩人に恋する少女を描き、後者は白馬を白鳥と名付け栗毛の馬に見向きをしない恋人達の姿を描く。ひとつひとつの言葉の綾が少しずつ全体を為し、そして全体の中のひとつの模倣がパロディとしての面白さを浮き出させる。
 そのような楽しみ方を昭和20年代に行っていたかどうかは解からない。ただ、俺が読み解く楽しさは此れであり、俺が望むパロディの美しさは此処にある。安直なパロディとは違った知的で品の良さを此処に感じる。

 物理的で乾ききった性的描写を含んだ俺のパロディに対して「品のある」という評価を得たことがある。何故に女性に好まれるのかわからぬ其の面白さは猥雑を猥雑としない俺のシンプルさから出てくるのか、それとも単なる彼女達の読み違えなのか、良く解からない。
 ただ、俺が三島由紀夫のパロディに見るのは、孤立でしか為し得なかった排他の思想である。他人に決して無条件の同意を見ることが無かった三島由紀夫だからこそ、このような美しさを創り出すことが出来たのかもしれない。
 同様な作品はこの作品以後多く作られたかもしれない。ただし、俺の読書暦の中にこのような作品は含まれていない。あまりにも気恥ずかしい展開に身を投げることを躊躇われたのか、其処に至ることが無かったのか、どちらであるかは判然とはしないが、創作という活動を重視すれば批判を批判としてか為し得ない批評家達を無視して、この作品には彼独特の妙技があるとしたい。それが筒井康隆のパロディに通づるとするならば、俺の中で新しい糸が繋がる。

 昭和20年代とい時代を考えれば、戦後の混乱期にこんな倒錯的な小説が書かれていたのは不思議なのかもしれない。後代の俺からしてみれば、ゆるりと書かれたように見える此等の短編も、当時に於いては奇妙な作品として雑誌に紹介されたのかもしれない。
 戦後の復興の中、満身創痍の日本には立ち上がるだけの気力しか残されていなかったように思えるし、戦争という大仕事に疲れてしまった日本経済には文学というものが意味を成したかどうか俺にはさだかではない。ただ、国家再建を掲げる中で異端であったのは確かだと思う。この辺、自分なりの文学史を作る必要性を俺は感じている。それは、現在という同時代の文学史を知ることにより、己の立場が多少なりとも解かる……と思うのだが、解かったところでどうということが無いのであれば、好きな作家だけの生死だけでも年表にするのもいいかもしれない。うーむ。

 グロテスクでエロティックな、という形容詞を付けるのが適切であるならば「女神」の作品群はそうである。其れを好むか好まざるかは読者の勝手であるのだが、そういう方向に進まざるを得ない己の読書傾向に多少嫌気が差す時もある。無論、エロスというものが、人間の興味の大半を占めるとしても、それだけに溺れるのは勘弁して欲しいと思って来たからである。その辺は恋愛に関して、完全にシャットアウト状態だった己の偏屈さから来るのかもしれない。
 何故か最近は娯楽も極端に少なくて、インターネットによる擬似的な会話と読書だけで日々を過ごしている。健全なのか不健全なのか解からない、いや、不健全には違いないが書に溺れ尽くす本身はしばらくこのままにしたい。
 娯楽産業には乏しいが、娯楽根性には飢えていた、かつての人に姿を模してみるのは、このような古風な文語体を使いつつある己だからかもしれない。

update: 1997/01/30
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