書評日記 第231冊
預言者の名前 島田雅彦
新潮文庫

 彼の様な作家が居ると作家になろうとする自信が失せる。既に廃刊になった「海燕」への投稿作家の数は雑誌自身の発行部数に等しいらしい。誰もが何かを言いたがり、誰もが作家のように成りたいと思うわけだが、その一人として俺は一体どうすればいいのだろうか。多読を続け、思考を続け、感想を書き続ける。其れで良いのか?
 無理であれば止めてしまう人生を感じた時、サラリーマン然としての単なる読書家というのは、余りにも虚しい。読書とは云え、刹那的な経済的手段を好まない其の傾向は明らかに他人とは異なる。インターネットで数々の読書日記、書評のある中で、文学を文学として扱うような大人には無意味とも思えるような作品を読み続ける行為を続けるのは俺ぐらいなものだ。何故、そのように小説を読まずに、推理小説や科学書やノウハウ本ばかりに目を向けるのか解からない。結局の所、頭を使わない人ばかりなのか……。専門家は別としても、せめて一般人と云える人は、と思うのは俺だけなのか。

 劣等感を覚えるぐらい彼の宗教感は正しい。いや、信仰という行動、そうせざるを得ない人間というもの、また、それから抜け出る人の描き方。神父に破門を懇願するマリ子の行動は、不可思議で不可侵なものを祈るよりも、愛するに足る追随する足る、自分の人生というものを前面に押し出し自らを添えるに足る、其れを実現する人物が居れば、一生を以って賭けるという行為を為そうとする意志の現われである。其れは架空の神という姿に身を捧げるよりも随分現実的であり、絶対に逃げとは思えない且つ逃げとは言わせない迫力を感じる。其れが「信用」というものであろう。
 あやふやな論理の渦に巻き込まれて、劣等感に苛まれる姿を思いつつ現実に流されるが如く身を寄せてしまうのは、寄せられる方に迷惑である。頭の弱い者同士の戯言であれば善いのだが、気付けば苦しくなる頭を持つ者は其の現実に身を置くのは無駄だと思う。どちらにせよ、信頼と信仰する勇気ぐらいは持って欲しい。

 強い意味での信仰を描いたのが「予言者の…」である。何者かに帰依するのではなく、自らの実現として神を崇め、其れに追随する形での自己形成を続けるワタルの姿がある。しかし、現実に蔓延る宗教感にうろたえ、その矛盾に立ち向かうものの結局は狂気のさたにした見えない現実に彼は苦悩するのである。正しさというものを押し出す時、何故か変わり者のレッテルを貼られてしまい、其れに対抗する強さを持った者は、自分を宗教家として実現せねばならない所に陥らざるを得ない。
 一体、彼は何を為し得ようとしているのだろうか。

 締めくくりは精神病院で目覚めによるワタルとして描かれているが、島田雅彦自身は絶対にそうは思ってはいまい。しかし、現実の描写として其処に陥らざるを得ない無矛盾がある。そうならなければ此れは聖書になってしまう。其処に小説としての拠り所が残されているのかもしれない。

 解説によれば、島田雅彦の行動力は感嘆に値する。数々の国を巡り数々の実体験をこなす。もし、そんな中からでしかあのような小説が為し得ないとすれば、此処でこうやって愚痴を垂れるしかない俺は彼には対抗できない。つまりは、小説家を目指す資格がない。
 最近の実体験の少ない己を省みて、読書に耽溺するしかない己を省みて思うのは「行動」が足りないことなのだが、実体験だけが経験として知識や思考を深めると思わないのならば……。

 比較によるジレンマに陥る己が恨めしい。絶対的に地位の低い己の姿を見て、一発大逆転を夢想するのは愚かな事だろうか。そうでなければ生きていけない、少なくとも生きる価値のないものと己を卑下してしまう自分を抱えて、俺は一体どうすれば良いのだろうか。
 立ち止まることを善しとしない俺は読書に耽る訳だが、少なくとも停止してはいない自分を見てささやかな安心を得る、それで良い。

update: 1997/02/05
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