書評日記 第233冊
死刑囚の記録 加賀乙彦
中公新書

 死刑囚は近い先に死を意識させられた人間である。死という生命の終着駅に対して現在の生からの距離を強烈に把握し、其れを日数で割り、一日一日を濃密な時間として扱っていく。其処には濃縮した時間があり、何故か悟りを得る者が多い。考えるという時間を制限されて、最後の瞬間までに対して「何かを為し得たい」という欲求に駆られる。それが狭い牢屋という閉鎖空間の中で閉鎖的であるが故に、思考の淵に重く沈む。突き詰められた生命の中では、人は狂乱するか、其れに耐えるかしかない。自由な行動を阻まれた死刑囚達は、精神的にぎりぎりの状態に追い込まれる。

 精神病医として加賀乙彦が、刑務所に通い、死刑囚達の話を聞く。其れは死刑という絶対的な終わりを目前にした様々な人間の足掻きの記録なわけだが、極限に追い込まれた人間とも考えられる。
 70人に余る囚人達と対話をし、彼らから個人的な情報を得る。犯罪者は社会的に犯罪者に成らされるので個人的な罪を問いただしたところで意味はない。精神医学的に治療を施すべき所を癒した後は、彼個人は至って健康体である。無論、幼少からのコンプレックスや社会での不公平感を強く意識する性癖を発揮するならば、其れが犯罪に至らないまでの自制心を養うべき鍛練が必要である。どちらにせよ、社会が不正であっても、個はその中に居る限り我慢せねばならない。意識をしなければ良いのだが、意識をするならば、そのような意識というものを全面的に認めて対峙する事が必要である。其れが人を罪に陥れない自制であろう。
 犯罪というものに興味を持ち、社会現象と個人的な精神的な事情を混ぜて加賀乙彦は其れを真っ向から研究する。此れを知って欲しいという態度が、この本を書かせる原動力なのかもしれない。

 小説として模した形で発表するのも良い手段である。其れは文学とは違うけれども、内面的な心理を登場人物に正確に模した上で、語りを進める。物語として伝える場合、「流れ」というものを重要視することが必要であろう。伝えたいという要因を固辞し、其れを流れに乗せる力量が問われる。柳田邦雄のようにレポートとしての小説もある。

 閉所での独房の中ではあるものの常に監視されているという状況、決して独りにはなれないという持続された緊張状態が、病理的な症状を産み出す。自由度の無さ故に人は自由を求める訳だが、本当の意味での自由の厳しさ知らない者には、ある程度の束縛が必要である。其れは、自由としての広がりを望みながらも、個人的に完全に自由という社会の関与の無い状態に人間は耐えられないからである。其れ故開放と閉塞の狭間に身を置こうとする。つまりは、床の無い自由空間には人は立てない訳である。
 世紀末の社会を病理として例えてしまうのは簡単である。また、病理的に見える症状ではあっても複数の階層を為す社会に生きなければならない人にとっては、それは自然な行為なのである。問題は、危うい自己という存在に気付いてしまった時に、どういう言動をするか、に掛かっている。自分が一体何者なのかを自分で定義して、そういう演技をするしかない。分裂した精神は分裂のままで置き、統一を求めるとしても猶予を与えて時を待つのが良い。
 ただし、自らの発現として作家のような自己というものを突き詰める職業を選ぶならば、本能として自由な自己を自己のままにして置くのが正しいだろう。死期が迫ったように経験を渇望していた己の時期を振り返り、其れはまさしく人としての脱却=死ではなかったかと思う。割り切れない想いは想いとして保留し、ただ静かに人生の死刑囚として時と行動を全うするのも良い方法かもしれない。

update: 1997/02/06
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