書評日記 第252冊
自殺直前日記 山田花子

 頑張る事が良い訳ではない。ただ、人の不幸を願わない山田花子の姿に共感を覚えるのは、俺だけだろうか。

 人が何故「義憤」を大切にするのか。単なる感情の表われではなくて、自己犠牲の中から生まれる相互の理解こそが、本当に自分を幸せにするものだからだと俺は思う。手助けをしようとする気持ちの中に、偽善が含まれるのだと言い張るのは勝手であるが、陥る己の自虐体制から抜け出せないのでは意味がない。無論、手助けできぬ場面に出くわすのが常であるので、陥り過ぎない心理的負担から逃れる術を習得しておくのは悪くはない。
 つまりは、「わたしは悪くはないのだ」という思い込みが大切だ。

 何故、いじめが発生するのかと言えば、社会が出来れば力関係が出来るし、その中で力の強い者が弱者を酷使するわけだから、当然の理に過ぎない。ただ、人が所属している社会はひとつだけではないから、多かれ少なかれ自分の立場というものを変えることにより自己のバランスを保つ。
 多層化する社会の中で、ひとつの社会を絶対視するところに、無理が掛かる。しかし、教育至上主義、出世や結婚を人生の幸福に置いてしまえば、それを叶えることのできない惨めな自分が残る。
 社会に属さねば生きていけないから、社会的な価値に身を寄せるのも結構なのだが、寄せるべきものを失った時、自分を見失わないためには価値観を自分の中に置くべきだ。どんなに危うい価値観であっても、無いよりはマシで、辛抱できる限り辛抱しなければならない自分を鑑みて、ちょっとだけ安心するのも大切かもしれない。

 俺は「らしさ」というものを捨て去ることに決めている。男性らしいという基準のもとに此処まで生きてきたが、どうも難しい。競争心が無いのか、勝負というよりも先に、協調を感じ、一切をGAME化してしまう部分でしか、俺は生きられない。
 そんな自分を発見した時、気分がすごく楽になった。自分のままでいることをせず、両親の想像する自分、出世を願う自分、能力を高める自分、等を追うには俺は世の中に敏感過ぎる。

 山田花子が自殺をしたのは、結局の所、強い彼女を幻想したからに過ぎない。己を信じて、己の正しさを邁進しようとする程、矛盾した世界に翻弄されてしまう。一体、何を求めているのか解からない刹那的な快楽に浸る人達の中で、ただ漫画を創るという意志が強く現われば現われる程、社会的な価値観と自分の価値観に挟まれて身動きが取れなくなる。
 人は本質的に優しいのか?その疑問を解かぬまま彼女は去る。
 呼び掛け方の文章は、自分を励ますのだが、納得のできぬ優しさが其処にはある。
 無論、彼女がこの文章を見れば、嘘だ、と言うに違いないだろうが……。

 本当の自殺なんて有り得ないと、寺山修司は云う。全て他殺に過ぎない。社会に追いつめられて場所を失って死に追いやられるのは悲しく悔しい。絶対、見返してやるという怨念だけであっても、人は生きていて欲しい。生きていれば、何かあるかもしれない、という儚い希望だけでもいいからと思うのは、俺だけなのだろうか。

 辛ければ死ねばいい。ただ、そうできないから生きてしまう人生でもいいと思う。

update: 1997/02/17
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