書評日記 第269冊
〈私〉探しゲーム 上野千鶴子
ちくま文庫

 社会学者である上田千鶴子が雑誌に載せた社会分析のエッセーをまとめたものである。そのために、ちょっと散漫な感じがするのと、発表の時期が1985年頃であることからか古さを感じざるを得ない。
 10年前の当時を思い出して読むと良いのだろう。ちなみに俺は高校生から大学生の時期であった。高校時代には本をほとんど読まなかったことの反省のために、浪人中に本屋や図書館に足繁く通った。
 そんな時期であったからか、大衆に対する「分衆」、「やわらかな個人主義」という用語が流行したのをよく覚えている。当時の大衆志向からの脱却の段階として分衆という概念が生まれたわけだが、人はそういった区別化ごっこに飽きたのか、再び一般大衆の中に溺れようとしているように見える。逆に、一般大衆の中こそに価値があるように行動しているように見えるのは、大衆という集団から完全に抜けきってしまった己の姿を想うからなのかもしれない。

 「トレンディ」という用語がまだ通用するのかさだかではない。流行りというものは、暴騰暴落の連続なわけだから、「たまごっち」であっても、去年の11月に流行り始め、今年の夏前には終わってしまう運命にある。「UFOキャッチャー」が流行りではあっても、ひとつの職種を作り出すに至ったのは、非売品であるところのぬいぐるみの多用さ、また、非売品であるからこその自己顕示の象徴であろう。それらを、店に飾ったり、車の後ろに置くことで、一般大衆としての流行に流されつつも自己を保つという、微妙な「私」を実現していたのである。「プリントクラブ」というものが、流行るのは、やはり友達という価値観を確かめるための手段である。つまりは、友達という人間から、友達という関係だけが遊離してしまっている部分を示している。
 ただ、最近の流行は、以前の流行とは違って、予測でき得る流行ではないかと思う。いわゆる「仕掛人」の存在を認めつつ、流行にのること自体を恥じずに、愚行と認識しつつ(それが本当の「愚行」とは知らずに)、流行に戯れる術を知った一般大衆を示しているのだろう。
 この辺の言及は、10年前とさほど変わらない。むしろ、トレンディを作成するトレンディな社会学者のコメントが、社会の流れそのものをその方向に動かして来たのではないか、という疑問が湧く。

 最早、人は確固たる〈私〉を諦めてしまっているのではないだろうか。少なくとも、日記を公開したり、ホームページを公開したり、擬似的ではあっても自己を主張なければ無くなってしまう〈私〉は、決して絶対的な内部にある〈私〉ではない。むしろ、外部から見られる〈私〉に寄り添う〈私〉を模索しているに過ぎないのではないだろうか。
 その辺に歪みを感じる者が「癒し」を求めようとする。ただ、「癒し」自体が流行となりつつある今、本来の意味での「癒し」を欲している人が、どれだけいるのか、俺は疑問なのである。

update: 1997/03/04
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