書評日記 第275冊
人間失格 太宰治
新潮文庫

 解説の中で『太宰の作品の他のすべてが忘れ去られてもこの作品は読者に残るであろう』とある。それは、"人間"というものが成長することにより、ある時点へと達成するという、積極的な生き方を主眼に置き、また、それに反する形で"失格"という結果を表わす部分に、人々が共感を覚えるからなのだろう。
 ただし、坂口安吾の「堕落論」で語られる通り、一度ならずも堕落の底に達することも大切なことであるし、浅田彰が「逃走論」で語る通り、場合によっては徹底的に逃げるという相対価値の追求を行うのも大切である。また、河合隼雄の語る"らしさ"という偏重に縛られることを認識せずにただ苦しくなってしまう現実に押しつぶされないようにするのも大切である。
 俺は、太宰治の作品を「二十世紀旗手」、「パンドラの箱」等、数冊を読んでいるが、あまり印象に残らないのは何故なのだろうか。単に"読み"が浅いのだろうか。

 実は、この大層なタイトルのおかげで、この歳になるまで「人間失格」を読んではいなかった。書名と太宰という著者から得られるのは、溺れる者が溺れる者達の心を知るがゆえの単なる感傷の寄り合いに過ぎないようで嫌らしかった。それは、自らの性から織り成される"男らしさ"というものを中心にしてここまで生きてきたからでもあり、その"男らしさ"の中で、一番卑下しなければならないのは、人間の尊厳を捨て去るところ、人間たるものを止めてしまう心の弱さであった。

 内容は、とある男の3つの手記からなる。だんだんと落ちていき、最後にはクスリに頼らざるを得ない男は、素直な妻が精力剤としてクスリを差し出す場面でなにかを気付く。

 太宰治の数度の自殺未遂と、クスリに溺れざるを得ない主人公が、この快楽の多い現代において真の共感を得られるとは思えない。つまりは、クスリは"依存"を表わす。人は独立者ではないのならば、どこかに"依存"しなければならない。無論、その"依存"が無くなったとしても、立っていけるだけの脚力を常に育てなければならないのだが、現代の人達は、それに気付いてはいないような気がする。
 少なくとも、数々の快楽にそそと戯れる今までの自分の姿を省みれば、"依存"していることを知らずに"依存"に頼るという、寄り掛からなければ独立し得ない弱い自分を知らずに過ごしてきたような気がする。
 それは、「インターネット依存症」という用語を知った時、決して我が身に当て嵌めたくはなかったものの、今、ある程度の間を持ってみれば、やはり"依存"であったと思われる自分を反省せざるを得ない。
 溺れるならばとことん溺れることも必要ではあるものの、溺れること自体を自覚しなければそれから抜け出すことはできない。一体、自分が何を無自覚にして"依存"しているのかを認識しなければ、"脱"を為し得ない。それは、世の中の垢にまみれた形での解脱かもしれない。様々な人間関係の中で、現実社会に組み込まれつつも、それと意識して現実と希望とを葛藤させ続けねばならないという、人生という人の継続した歩みと時間の中に潜む、本質的な"自分らしさ"の追求ではないかと思う時がある。
 それが何を以って実現されたとするか、は最も個人的な問題に過ぎない。個人的であるからこそ、外側に惑わされぬ自分だけの拠り所を強固にして、たまに俗世にまみれる強さを持つことが、"自分らしさ"と社会でのひとつの地位を確立するに至る過程ではないだろうか。

update: 1997/03/12
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