書評日記 第277冊
豊饒の海 三島由紀夫
新潮文庫

 永遠に乾いた海であろう月の表面に豊饒と名付ける程トリッキーなことはない。そんなところから得られる「豊饒の海」というタイトルは、三島由紀夫の永遠に癒されぬ想いの現われなのだろうか。
 豊饒の海4部作は起承転結に例えられる。そして、阿頼耶識、唯識論、輪廻転生の概念を経て、主人公本多の人生が翻弄されるに至る。
 最近の長編嗜好のファンタジー小説では、登場人物を多数盛り込むことで物語の広がりをつける。次々と現われる登場人物達によるそれぞれの世界が小説という世界を自動的に広がらせ、そして統合していく。成功例を挙げれば、「グイン・サーガ」や「うる星やつら」が、著者特有の世界と、作品の世界とをうまく融合させているような感じがする。
 豊饒の海を長編として、先の2作と比べるのは酷かもしれない。どちらかといえば、本多を始め、清顕、勲、ジン・ジャン、透、慶子、聡子、の7人程度でこの作品は完結しているのかもしれない。もっと踏み込めば、本多一人の妄想が織り成す世界であったと云える。
 そういう点では、最近の長編とは違い、確固たる三島由紀夫の世界があって、彼の思想が彼の希望がそのまま描かれた作品であるのかもしれない。

 40歳にして、この深みを出せたとするならば、やはり、三島由紀夫は天才であったのかもしれない。「仮面の告白」の突き詰める自分をそのままに「豊饒の海」まで昇華させて、小説家としての年期やテクニックよりも、すべてが連なる無駄のない動きを感じるのは俺だけだろうか。
 削ぎ落とされた骨を感じる。柄谷行人の云う通り、脂身は必要かもしれない。しかし、ミスター腹筋の語る言葉は、彼の身体と同じように、軽やかにして重厚さを纏うような気がする。だぶだぶのビール腹ではなくて、引き締まった身体は、余分を要しない、また、余分を拒否する強さがある。

 輪廻を果たす4人達を見つめる本多は、皮肉な役目というものを背負わされる。最後の門跡との会話が多少陳腐ではあるものの、見守る者として生きてきた本多自身の人生は、彼の儚い希望であったに過ぎないとされる。
 生きていれば何かがあると期待するのか、死んでしまえば単なる終着駅に着いたに過ぎない己を嘆くのか、老いてしまいままならぬ自分、若くはない自分を嘆くのか。
 老いた本多の言葉「若ければと思うのだが、私が若かったとしても、そうはしなかっただろう」に重点が置かれる。清顕の恋への殉死を冷ややかに見つめざるを得なかった本多は、そうはなれなかった自分を悔やむのである。それは、若さゆえの過ちではない。人は純粋であれば常に純粋になることができる。逆に、純粋な己を知らなければ、純粋になれるはずはないのだ。つまりは、行動できない自分を「若ければ」という社会人としての爛れた分別に紛らわせてしまう弱さを披露しているに過ぎない。
 世間のしがらみというものが、本当に価値あるものなのだろうか。浅墓な安定に身を投じて、世間を見知ったような気になっているだけではないだろうか。
 死すれば何も感じはしない。輪廻を感じるも、それに悩むのは輪廻を終えた自分に過ぎない。現時点の自分に希望を持てない状況を持て余すことこそ、おろかな行為ではないだろうか。それを知らぬならば良いのだが、一旦知ってしまった者ならば、安易な諦めに人生を埋没させてしまうよりも、致命傷を負えばお終いになってしまう人生でもそれでいいのではないだろうか。
 切腹をして、死にきれぬ自分を残し、後でその事実を若さゆえの過ちとして苦笑するよりも、きっぱりと切り取ってしまうほどの純粋に身を投じるのが、晴れやかな己を残すことができるのではないだろうか。

 何もしなければ何も残らない。脱する勇気と埋没する思慮を人は兼ね備えなければならない。のうのうとして生きる者になりたくないと思い続けるならば、常に積極的な態度を持って人生に当たるのが良いのかもしれない。
 嘲笑われる己を嘆くのではなく、己にこそ本当の価値があり、世間との付き合いは、ささやかな快楽への接触として止め置くのが理想なのかもしれない。

update: 1997/03/13
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