書評日記 第298冊
人工生命の近未来 柴田崇徳、福田敏男
時事通信社

 人工生命に興味を持ったのは、3年前だったと思う。
 「記憶」というものに興味を持って、GAを知って、LISPを学んで、UNIXのシステムを勉強した。
 結局、身に付いているものと云えば、独学したものばかり。
 当然といえば、当然なのだろうが……本当に当然なのか?

 人工生命の面白さは、現実からの転写によって、ひとつの真理(心理)が見えてくるからではないだろうか。
 トップダウン形式の統括された環境では決して見つからない、個々の動きから全体に至るボトムアップ形式の中にこそ、複雑さを簡略な理論に移し替える思考体系がある。むろん、「理解」というものが、対象物への見下ろしによる解明にあるのだとしたら、ひとは「理解」そのものを途中で諦めなければならない。何故ならば、要素々々が絡み合って複雑さを醸し出すのであるから、要素のみを捉え、また、全体を要素として捉えて、それを連続した体系として打ち立てることはできないからである。
 ひょっとすると、人は人を決して理解し得ないのは、このためかもしれない。

 知能と群知能という考え方は、プログラミングにより可能であり、遺伝プログラムというものは、アセンブラやLISPによって可能になる。
 この辺、それ用のプログラミング能力を持つ自分が不思議である。
 いや、興味があるからこそ、手段と能力が培われているのだろう。

 遺伝の中のポイントである「交換」と「変異」が、コードに発生する。突然変異自体は、それほど頻繁に起こらなくても良い。RNAで500分の1。DNAでは、10万分の1である。
 実際、遺伝プログラムで重要になるのは、「淘汰」である。
 よりポイントを獲得する遺伝子=コードを持つ、生物=プログラムが残り、繁殖するという点で、平等である。

 「理解」という過程も、遺伝プログラムの範疇にある。
 構想を練り、何かを切り捨てて、何かを残していく。その「模索」という過程は、実行手段の淘汰である。
 「ダーウィン進化論」が見直されつつあるのは、その「進化」という「時間」の関与した形態にある。がっちりと組み込まれたアルゴリズムではなく、環境が変化するごとに徐々に変化し、一個の個体としてではなく、数多くの個体の集団としての群個体の動作が、全体を見下ろして再び個とみなし、それを動的なアルゴリズムとして捉える。

 人は何に興味を持つのだろうか?
 人に興味があって、自分に興味があって、その興味自体に興味がある私にとって、「把握」から「納得」に至る過程そのものが、私の生きていくべき人生なのかもしれない。

 すべては、アプリオリではない。

update: 1997/05/18
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