書評日記 第301冊
小説を遠く離れて 蓮實重彦
福武文庫

 長編小説と云われる井上ひさし「吉里吉里人」、大江健三郎「同時代ゲーム」、村上春樹「羊たちの冒険」、村上龍「コインロッカー・ベービーズ」、中上健次「枯木灘」を言及していく。
 最後にて蓮実重彦が自ら語っているが、小説を「離れて」というタイトルにもかかわらず最終的には「小説」を擁護する形式になっている。もっとも、小説に関して描く時に、小説の存在自体を全面否定しはじめて全面否定にして終えることができないのは明らかである。なぜならば、彼自身の「小説」を求めるからこそ、彼は巷の小説が「小説」であるか否かを探究するのであり、その探究の先には必ず彼自身のイメージする「小説」のスタイルが存在する限り、彼は「小説」から離れることは決してない。だから、彼が彼の求める「小説」を擁護し、また彼のイメージする「小説」に近づきつつあるであろう、または、彼の「小説」を支える巷の小説を擁護することになったとしても無理からぬことだと思う。
 ……当然、蓮実重彦はそれを承知で進めているのであろうけど……。

 争点は「長編」というものにあてられる。
 果たして、物理的に文章が長ければ長編であり、短ければ短編であるという能天気な分類は意味がない。「長編」たる長編小説、「短編」たる短編小説が、小説という形式の中に小説のあるべき姿を埋め込むことができる。それは、大江健三郎の云う『小説とは閉鎖世界であり、その中の法則が小説の中だけで簡潔すること』を意味するのであろうし、筒井康隆が「短編小説講義」で語る単に短いわけではなく長い小説と同様のところにあるコアを共有する小説という意味での短編小説の存在、というような意味を持たせている。
 短編小説が、著者のひとつのイメージを固定させるべき非時間空間の実践であれば、長編小説の役割は、著者も読者も巻き込んだ時間の流れを重視した事象の変遷の実践であるだろう。それは、物理的な長さではなく、思考の長さ、思考の流れによる手順、そこから導き出される結論への道程の長さ、を示している。それが無ければ、長編小説は単なる長い短編小説に他ならない。また、「小説」ですらないかもしれない。

 「双子」、「捨て子」、「家族」というキーワードが、この本で言及されている長編小説に含まれるのは、著者が生きてきた時代というものを示している。……もっとも、「日本」という風土の中で、家族という空間の中から個人を導き出そうという現在の風潮から見てみれば、4年前ではあるものの「小説を遠く…」はしごく当たり前のことを云っているような気がする。
 昨今の「癒し」がキーワードになった日本社会から生み出される数々の小説は、それらの小説の中に「癒し」を含むであろうし、ベストセラーとなれば、「癒し」というキーワードを社会学的に当て嵌めるに足るからこそベストセラーという地位を成し得るという相補的な要素をはらむ。

 この辺、私は多少過敏になっているかもしれない。
 でも、まあ、鈍感よりはいい。

 小説というものは一体自分にとって何であるのだろうか、という疑問を解決しようとしている。
 単なる娯楽では終わらせない、受動的な娯楽(筆頭はTV)ではなく、能動的に感受しなければ何も得ることはない小説という存在、ひとつのことを考えるという発端としての小説という手法。
 一体、ひとは何を考えているのだろうか? それとも何も考えてはいないのだろうか。
 「考える」ことにより何を向上させようとしているのか自分でも解かりかねる。
 しかし、その場その場の散漫な精神を嫌う。ひとつの事から次の事へと繋がりを求めて更なる繋がりを得る。

 小説家が偉いわけではない。ネームバリューという幻想を利己的遺伝子の繁殖と捉えた時、自己実現を求めようとして足掻き続ける人生は、その人にとって「幸せ」なのだろうか? 自分の中の本物の幸福に対峙し、その幸福が自分自身にとって本当の幸福なればこそ「幸せ」であるという連続的な確かめる態度を持っていなくては、「幸せ」であるとは云えない。
 人との「かかわりあい」の中に自分を見つけ、自分を固持するからこそ関わり合いを拒否するのだとすれば、一体、「かかわりあい」というものは何なのであろうか?

 時間の流れだけが、其処にある。
 一日が長い。

update: 1997/05/21
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