書評日記 第307冊
さようなら、ギャングたち 高橋源一郎
講談社文芸文庫

 高橋源一郎の華やかなデビュー作。
 ……とは云え、私は彼の著作をこれしかしらない。
 ただ、吉本隆明によれば「村上春樹や村上龍や、筒井康隆や栗本薫を読みこなした上でできるポップ文学の先駆」という。私もそう思う。

 実は「さようなら、ギャングたち」を知ったのは、私が高校の頃だから10年前になる。ラジオドラマで番組っていたのをはっきりと覚えている。
 死亡通知を受けるキャラウェイを背負って墓地へ向かうシーン。
 ラストに、詩人としてではなく、びっこのギャングとして死ぬ「さようなら、ギャングたち」。
 「中島みゆきソング・ブック」という名前の彼女。「ヘンリー四世」という名前の猫。4人のギャングたち。詩の学校の話。使っていたBGMは、サティだったこと。などなど。

 私にとって高橋源一郎のポップさは、村上龍のようにイヤミではない。鼻に掛かった英語とドラッグと女とセックスではなくて、痛みを乗り越えた上で支えられている真摯な高橋源一郎の文体は、私によくマッチしている。

 彼はまず文章のリハビリから始めたという。
 同じ文章を毎日毎日書き続ける。その文章が自分の本意になるまで書き続ける。書いてある意図が、自分の意図になるまで書き続ける。何度も書き付けて、何度も読み返して、自分の姿が自分の文章の中に見えてくるまで書き続ける。
 その結果が、「さようなら、ギャングたち」のような物悲しいポップさを打ち立てたのであれば、その物悲しさは本物であるし、物悲しさの根底には、本当の彼の姿が見えてくる。

 自分を信じ続けること。
 信じ「続ける」ことによって、自分は自分になる。自分であり続けられる。人とは比べ物にならない、自分だけしか自分と比べられない、自己という存在が打ち立てられる。
 あなたは何になりたい、何をしたい、何を信じたいのですか? と聞きたい。誰もに聞いてみたい。

 語るということ、喋るということ、話すということ、自分の中の希望を確かめるということ、自分が自分であるということを確認すること、幾度もの確認が自分を信じられる存在として確立させられていくこと。

 裏切られるということ。自分の信じているものが信じていないものになること。幻想であるということ、しかし、幻想を現実としようとすること。辛くても我慢すること。待つこと。じたばたすること。足掻くこと。泣き叫ぶこと。喜ぶこと。すべての人が感情を持つということ。すべての人が繊細であるということ。すべての人がすべての人に優しくありたいと願っていること。そう願い続けること。人の幸せが自分の幸せであるということ。喜ぶ顔が見たいということ。語り合いたいということ。愛したいということ。幸せでありたいと願うこと。すべての人が何かを感じるということ。感じるものを大切にしているということ。

 だから……そう、幸あれかし、と云うこと。
 人は幸せを願う。人だからこそ、幸せを願う。

update: 1997/06/02
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