書評日記 第309冊
文学テクスト入門 前田愛
ちくま文庫

 読書の仕方の中で、趣味的な読み方を望むならば、さして文学の示すところの「テクスト」に興味を持たなくてもいい。ただし、さほど能天気に著者の示す物語の部分を享受できなかったり、著者そのものが小説を媒介として読者にひとつの提示をしている場合には、「テクスト」というものを意識せざるを得ない。
 理系で云うところの物理法則が文系の云うところのテクストなのだろうか。私が今まで小説を読み進めてきた理由の第一に、物語の中に埋没する楽しさである「感情移入」がある。逆に云えば、小説の中で不可欠であると思えるのは、感情の流れであって、小説という舞台の中で演じられる数々の登場人物達に同意ないし反意を示すことで、自分の「典型」を確認する作業であったのだと思う。むろん、そのようなややこしい言い方をしなくても、ただ、「おもしろかった」という読後感を求めるために読書をするという、まず結果があって原因を作り出していた繰り返しであったかもしれない。
 どちらにしろ、小説をただ小説として捉えるのではなくて、あらゆる面を含んでいるという「小説」という物体を観察するところに「テクスト」の面白味があるのだろうし、その数々の解明の部分が、小説を作り出す作家達の土台、解読する読者の立場、小説という場の辻褄あわせ、小説のおもしろさ自身、を成立させつつあるような気がする。

 「テクスト」の解明を見た時、一見何が楽しいのかと憤慨してしまうことがある。それは、生きた生命の謎を解明する時に、死体の腑分けをしているような戸惑いがある。ただ、内部的な構造を確かめることによって、全体を知り、細部を覆い隠すところに全体の謎があり、決して総括的には理解できないところに理解そのものの限界があり、各レベルに留まるところだけにおいて解明により理解というものが基盤を有しているものとすれば、「テクスト」による作者も読者も放り投げられてしまったところにあるただ唯一の存在である「小説」というものに面と向かうことで、数学的な「美しさ」を感じるとしても不思議ではないのだろう。
 尤も、その複雑さと解明してしまった簡潔な部分に、多少の興ざめを禁じ得ない。なぜならば、情を通じることによって「感情移入」、または、作者から読者へのとある訴え(それが読者自身の生み出した幻想の作者だとしても)を享受し、その享受したところから読者である人という存在が、何を得、何を考え、何を成しているか、という小説から遊離し始める外在し得る価値というものに主眼を置けば、小説を読むときにあたら考え込むことは必要ないであろうし、それらの「解明」は愚問に過ぎず、些細なことでしかない。
 ただし、決して不必要な事柄ではない。なぜならば、ユング心理学の示すところの「深層」という野が、作者が作る作品が常にそれ以前の隠喩を含むことを示すと同様に、すべての過去は現在の下に積み重なっているとすることができる。その中から得られるのは、現在は過去から切り離すことはできなく、現在は未来を形作る通過点であり、しかし、その時間の連続性をすべての事象に感じざるを得ないことに気が付かねばならない。それは、表徴として、形式として、基盤として、触媒として、常にあらゆる事象に内在する事項である。

 ……とかなんとか……。

 「おもしろさ」とは一体何なのか不思議に思う。
 「おもしろさ」を求めるおもしろさが在るとすれば、此れが其の「おもしろさ」なのだと思う。

update: 1997/06/04
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