書評日記 第312冊
燃え上がる緑の木 大江健三郎
新潮社

 ひとりの男性が思想的にも性的にも「転換」をする話。

 思想的に紛糾すると宗教的になる。
 自分の中に「神」を置く。「神」に自由はなく、「神」に見守られるもの、つまり、人間に自由がある。
 束縛の中でしか自由はないものの、その束縛は外部的権力(無意識的な慣習・常識も含んで)にのみ支えられるものではない。自分を自分に殉じさせるところに自らへの拘束が存在し、それを守りきるところに自由が生まれる。逆にいえば、ひとつひとつの拘束を意識しない限り自由は存在しない。各構造を脱するところに自由が存在し、自由は自由になった途端自由を失う。自由になり続けようとする意志のみが、自由を求める精神とイコールになる。

 人は運命を求める。少なくとも、私は自分の運命を求める。求める運命は怠惰な悲劇ではなく、自己実現による現実である。それが、現実においてはロマンチックであるからこそ悲喜劇にみえるし、他人からは滑稽になる。真剣であれば真剣であるほど、滑稽になる現実の中では、自分の中の泥臭い運命に従うことこそ、自分の運命であると「いいはる」ことによって、自分を自分の運命に潜り込ませる。
 しかし、運命とは、現実の流れの中にあるもので、個人的な思想によるものではなくて、社会の中で翻弄されるところの自分を確認するところにある。自らの志望するところと、社会が自分に望む姿、そして、自分が懸想する社会の望む自分の姿……さまざまな段階による自分への投影が、現実に進み得る自分の道というものを決定付ける。
 それは、決して向こう見ずな死ではなくて、向こう見ずにならない客観視と、向こう見ずな行動を敢行し得る主観視が必要になる。
 自己実現をせんとする自分を抱える時、運命に身を委ねる「とき」を見定める必要がある。むろん、それが運命であるかどうかその場ではわからない。しかし、その「とき」が運命であると自分に主張する場合、また、それを望む自分を強く感じた時、そして、自分の中の自分が強く主張し始めた時、後悔しない自分を残そうとするならば、また、後悔なるものを信じないのならば、運命の中に翻弄されようとする自分を作り出すことが必要になる。

 これほど、私自身の望む結末を得た小説も珍しい。……いや、初めてかもしれない。
 最終的に「救い主」は死ななければならない。なぜならば、人を救うのはそれぞれの人であって「救い主」ではない。「救い主」自身は自由を持たない。自由を持たないものが象徴になり、それに逐一自分の気持ちを対応させる場所に人が住む。だから、人ではない「救い主」において、共に同じ時間・場所に生きることはできない。心に宿る「救い主」の行動に自らの言動を逐一対峙させる時、「救い主」の言葉が象徴になり、行動原理になる。
 教会に集うこと、会員となること、は本質的なことではない。自らの中に教えを取り込み、行動原理として自らを変革・構築するところに、教え自体の望むものがある。

 人が人であるがゆえの原理が同じところにあるならば、人は自らによって教えを築くことができる。それは、『さまざまな神がいるけども…』というフレーズが矛盾を含むことを示す。

 現実に起こる事象が万人に見えるからこそ、言動が大切になる。人の中の言動でしか、人の心が見出せないからこそ一貫した言動が大切になる。
 殉じるべきものは唯一である自分の中にある。
 だからこそ、運命に現実に翻弄されることを「翻弄」とは思わない。それこそが先への道程に他ならないからだ。

update: 1997/06/30
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