書評日記 第320冊
放浪記 林芙美子
新潮文庫

 林芙美子の日記。巷のwww日記はこれに追いつきはしない。
 それは林芙美子がプロの小説家だから、ではなくて、巷のwww日記を書いている人達がアマチュアだからに過ぎない。プロになれないアマチュアであって、プロになれるアマチュアではない。

 『中学生や高校生が大人顔負けの詩に出会うことがある。だが、彼らが大人になったとしても詩がうまくなるわけではない。それは、彼らが中学生や高校生の頃に「生きて」いたのであって、大人になってからは「生きて」いないからに過ぎない』

 放浪記の第一部は焦りと幸せの普通の日記。
 第二部はご飯が食べたいという貧困の日記。
 第三部は、プロの作家、林芙美子の日記である。

 『文学新人賞をとったことのある普通の人にならないで下さい』

 『なんで小説家になるといえば、小説しか書くことがなかったからで、それ以外にすることがなかったから』

 放浪記の第二部は他人事として読めば、女性の虐げられた環境を知ることができる。それに同情するかどうかは別として、女性自身がみずからを女性であるが故に虐げられていると感じ、その思い込みこそがみずからを束縛しているということが解かる。
 むろん、男性社会の中で女性が女という性を持つが故に、男という性を持たないゆえに差別される現実というものが展開されている(いた)のは事実であろう。だが、それぞれの立場は、それぞれの出発点があって、それぞれが比較にならないのだとしたらどうなのだろうか。
 社会の不当差別は、とある支配者の利益、そしてかの人が擁護する人達の利益が多数であるからこそ、自然淘汰の中から生まれる区別に過ぎない。
 ……まあ、私自身が、男性であるし、会社員であるし、両親はいるし、両手両足は揃っているし、それなりの頭脳を持っているし、インターネットに繋がるし、コンピュータを扱えるし……そういう人が言ってもうそ臭く聞こえると思う。私自身も思う。
 でも、私から見れば、林芙美子はうらやましい。とてつもなくうらやましい。

 林芙美子は、童話が売れないと言って泣く。私が女だと思って馬鹿にしているといって泣く。でも、童話を作るのをやめないし、詩を書くのもやめない。何も考えず、読者に媚びず、自分のために書こう、と放浪記に書いてある。今は、たくさんの詩を書きたい、という。

 小説を書いている時は楽しい。自分でひとつひとつ言葉を積み上げる作業は、苦しいものではない。逆に、書く前は苦しい。涙が出るほど苦しい。いや、実際ぶつぶつ言いながら泣く。プロでもないのに泣く。
 でも小説が書きたいと思う。書きたいから書く。ひとつひとつの感情を言葉にしようとして一言一言書いていく。
 私の場合、たくさん書けない。進まないから、なお辛いのかもしれない。
 ただ、不思議なのだが、次の日になって、読み返すと、小説の中に自分の書きたかった「もの」がきちんとのっかっている。それだけでいいような気がする。
 
 どうなんだろうか。
 巷の人が「放浪記」を読んだ時、どう思うのだろうか。
 今、私は、やっと、小説を書くようになったけど、小説を書かない人はどうなのだろうか。何もやろうとしていない人はどう読むのだろうか。
 
 そう、きつい結論だけど、何もやろうとしていない人は「放浪記」を読まないと思う。何かやりたい人だけが「放浪記」を読むのだと思う。

update: 1997/07/20
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