書評日記 第342冊
超伝導ナイトクラブ 村上龍
講談社文庫

 「村上龍批判序説」用。

 科学が「超伝導」をキーワードにして巻き返しを図り始めたときにこの小説は書かれている。先の「愛と幻想とファシズム」と同様にお勉強によってこの小説は書かれている。
 ただし、「愛と幻想の―」で2年間の経済書に触れる時間を得、「超伝導―」で2年間の科学書に触れる時間を得ている。最後の100頁あたりが村上龍らしい。後は捨てる「お勉強」の成果でしかない。

 ひょっとすると資本主義的な「スター性」から抜け出そうともがいていたのかもしれない。本人が意識するか無意識かは別として、何かを取材して、自分の中で分析していくという作家としてのベースを彼はこの二つの作品によって得ることができたと思う。果たしてその成果はどうか解からない。「長崎オランダ村」では成果が出ていない。

 インテリジェンスというものは、日常の中に出てくるウィットを誘発する。バックボーンにまとわりつくあらゆる知識がインテリゲンチャの本来の意味である。
 「愛と幻想―」には「谷崎潤一郎」という用語が出てくるが、これは、「長崎オランダ村」にも出てくる。また、「メタファー」という用語が、「長崎―」と「368Y―」に出てくる。
 それぞれの用語は、小説の中のプロットには関係ない。会話の中に出てくるのだが、プロットに関係ないものを繰り返すべきではない。また、その辺が、村上龍の「お勉強」へのコンプレックスを示しているように思える。彼自身の用語になっていないものを作品の中に入れてはいけない。もちろん、ディテールを付けるのならば別。ディテールはディテールとしての役目を持っている。また、意識して繰り返すのならば別。
 「谷崎潤一郎」が浮いているのは、彼の作品には作家名が出てこないから浮いて見える。また、彼の作家には作家名というような「現実」を受け入れる器を持っていないから、浮いて見えるのである。
 「メタファー」が浮いてみえるのは、小説中で話をしている人達がウィットに富んでいないからである。もちろん、酒やロックやスポーツにウィットではあるものの、「メタファー」という言葉を使うようなウィットは彼の小説にはない。これは、村上龍の「お勉強」の結果が小説の中で使われたに過ぎない。

 それでも「超伝導ナイトクラブ」は最初の部分よりも最後の部分の方が幾分、村上龍らしくなっている。つまり、科学用語を使わなくなっている。この辺、勉強が間に合わなかったのか、勉強したっことをそのまま小説に持ち込むことを意識的に止めたのかはわからないが、少なくとも、最後の100頁は非常に彼らしい。この辺の流れは「イビサ」に継承されて、「イビサ」でひとつの彼の文学を作るに至っている。

update: 1997/08/17
copyleft by marenijr