書評日記 第358冊
百物語 全3巻 杉浦日向子
新潮コミック

 高橋克彦が誉め、夏目房之助が誉めている。
 いわゆる、近藤ようこ・坂田靖子と同じタイプだと思う。
 
 杉浦日向子は時代考証を独学でこなしていると書いてある。江戸時代に惚れ込み、江戸時代の風景に惚れ込み、江戸時代の風土に惚れ込む。そんな彼女の描く「江戸の風景」は北斎を思わせるほど自然なような気がする。多分、そのナチュラルな部分が同じように江戸の古さを好む男性達に人気のある理由ではないだろうか。
 近影が美人であることもそうかもしれないが、杉浦日向子の横顔がどことなく浮世絵の中に出てくる美人画であり、それは現代風に云えばどことなく奇妙なしもぶくれの感じを受けるのだが、その「ずれ」が好いのかもしれない。
 
 彼女の漫画は巷で云うところの漫画の域を遥かに越えている。いや、巷の漫画が漫画の域に達していないといった方が正しいだろうか。週刊誌に連載される数々の少年漫画・青年漫画とは一線を画する。それは、文芸雑誌「群像」に載っていてもおかしくない格調を感じる。
 絵のうまいへたではない。俗に云うところの「へたうま」でもない。妙な絵でもない。ただ、彼女が為してきた時代考証の的確さが漫画の根底を支えているような気がする。それは、デッサン等の西洋画ではなくて、北斎漫画を源流とする筆の流れとのあでやかさ、というものだろうか。妙な色気を感じるのは私だけではないと思う。
 
 百物語のストーリーは、泉鏡花を源流とするおどろおどろの話である。この辺、妖怪を中心として描く水木しげるに通じるものがあるかもしれない。ただ、水木しげるの場合は心理的な闇の部分を現出させるのに対して、杉浦日向子の百物語は「物語」といしての遊離したしらじらしさの中にお話としての昇華された部分を感じる。
 これは、小説における「リアリズム」だと思う。リアルであることは、現実世界の中で現実として起こるという保証を意味するのではない。作者の描く、または、作者とはまた別個に存在する作品の世界の中で、確かに現実として成立するという実感、そこの部分に読者が自然と溺れていく感じが得られる時、私はその作品が「リアルである」と感ずる。そういう意味で、百物語は非常にリアルである。
 
 以前、小川未明の童話のパロディを書いた。その時、感じたのは童話の中にある小川未明という人物だろうか。私では決して浮かびあがることの無い風景が其処に描かれる、その瞬間にあっと驚かされた。これは、普通に読んでいたのでは解からない。ストーリーをなぞってみて、パロディにしてみたからこそ解かる実感というものだと思う。そのくらい微妙な部分が作品には含まれるし、それだけ強烈なものを作品というものは放っているといって云い。
 それを「オーラ」だと云う人もいる。筒井康隆の小説がどの小説群にも属さず、数行読んだだけで、明らかに筒井康隆であるという文章を感じる。こうなると文体だとか作風だとかはすっ飛んでしまう。筒井康隆という人物が判子のように小説に押されているに違いない……というの「家族場面」の解説で誰かが書いていたような気がする。
 これを読者から作家への過剰な惚れ込みなのかもしれない。しかし、その惚れ込みをさせるほど作家に魅力があることには違いない。
 実は、大江健三郎著「みずからわが涙をぬぐいたまう日」を読みつつ思ったのは、矢張り私は大江健三郎の小説が、作品が、好ましいのだろうな、ということだろうか。そういう本質というものが作品に浮かび上がってこそ、作品に、そして、作家に惚れ込むことができる。
 
 だから、ある意味でべた賞めのような気がする杉浦日向子賛美は、仕方が無いのかもしれない。むろん、批評家ならば何らかの解釈が必要になるのだろうが、単なる読者として杉浦日向子の作品に出会うならば、何もそういう野暮なことは必要ない。彼女の描く「正確な」江戸の風景に耽溺し、ただただニコニコと肯くだけで良い。
 
 風俗としての若旦那、たいこ持ち、遊郭、おいらん、かむろ、町人、そういう江戸の風景が作品の中に溢れかえる。……この辺「ゑひもせず」を読んでふと思ってこれを書いているのでそちらに流れてしまうが……、兎も角、良いものは良い。そういう人間としての魅力を彼女に感じるのは妥当なことだと思う。

update: 1997/11/22
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