書評日記 第374冊
無名の作家の日記 菊池寛
岩波文庫

 私には「作家としては何も残さなかった人」としての認識が菊池寛にある。ただ、『無名の作家の日記』他9編を読むと、梶井基次郎の『檸檬』のような雰囲気が彼の著作にはある。井伏鱒二ほど野心的ではない(尤も、井伏鱒二は川端康成よりも野心的ではないが)、ありありとした作家としての菊池寛の姿がそこにはある。逆に言えば作家として体勢する必要は無かったという切迫感の無さがある。
 それを人生の薄暮としての熟成と捕らえるのかどうか、私にはわからない。だが、最初から老成してしまった菊池寛や梶井基次郎にとっては、同世代の作家たちの喧騒は所詮喧騒でしかなかったのかもしれない。
 
 ある意味では、途中でぷつりと切れてしまった完成度の無さというものがある。それが良いか悪いかは別として、逆に突き詰めるほどの必要性が彼には無かったのではないだろうか。
 自分の気持ちを小説の中に代弁させるのではなくて、感情そのものを小説の情景の中に広げていくという手腕だと思う。それを「手腕」として芸術味を帯びたものにしてしまうかどうかは別として、何かしらの手腕がひとつの個性として作家には不可欠なものだと思う。でなければ、凡人はずうっと凡人に安住することを望むに違いない。
 これは私自身が少なからず野心なるものを持っているからに過ぎない。実際、作品『無名の作家の日記』のように他人の成功を嫉妬する心を私は持っている。だが、それを指加えてみているほど私はお人好しではなく、また、相手を蹴落としてのし上がっていこうというほど競争力が高くなく、そういう人は、何か孤立化したところでこつこつと作業をやるしか残されていない。…もちろん、それが現代社会の価値観から遠く離れているとしてもだと思う。
 
 いわさきちひろは幸せだったのか、と考える時、彼女が生前に一生懸命やることがあったのだから、幸せだったのだろうという結論に達する。バッハも死後100年にして芸術として認められるようになったのだが、バッハ自身としては生前に幾人かの取り巻きといっしょに楽しく暮らす一時があればそれで良かったのかもしれない。所詮、本人は死んでしまえば後は野となれ山となれということだと思う。
 それは、無謀で無計画な将来を決定付けてしまうのではなくて、それなりな満足感を得るということと、心安らかに子孫の繁栄を願えるだけの功績を残せばそれで十分ではないか、という気長な意図だと思う。それが利己的遺伝子の導くところなのであるから、それに准じるのも悪くはない。また、それこそが「成功」の秘訣であろう。むろん、「失敗」なぞ存在しないのだが。
 
 石川淳、坂口安吾、ゲーテ、ハイデガー、といった系譜を見てみると、人はそれほどあくせくしなくて良いことが分かる。もちろん、心騒ぐ時は騒いでしまうのが人情というものなのだが、生きる価値なんてものはどこにでも転がっているものだと思う。逆に、どこにも転がっていなくて、目の前にあるものが唯一と呼べるのかもしれない。
 それが小説という形で現れてきて、目の前に提示されると、私は一時ではあるが孤独を忘れることができる。共感というほど強くはないのだが、まったく別世界の別価値の袖触れあわぬ人とは思えない。それが菊池寛という人だと思う。

update: 1997/12/11
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