書評日記 第384冊
恋愛のディスクール・断章 ロラン・バルト
みすず書房

 恋愛はなくても生きていけるけれども、あれば人生が豊かになる。……むろん、恋愛は文学の産物であって、最終的に子孫を残そうとする生物学的効果を考えるのであれば、恋愛とはその効果を高めるものであると言い切ってしまってもよい。
 ただし、悩むのであれば、それなりに悩むべき手法というものがあろう、ということだろう。
 そういうひとつの視点に立って、ロラン・バルトは「恋愛」を言及していく。
 
 ある意味では「恋愛」そのものを言及していくのは無粋であるかもしれない。だが、単に流されて恋愛をこなしてしまうだけでは詰まらないと私は思う。また、危険であると私は思う。だから、主観的でしかない恋愛感情に対して、客観的な視点を得ることは大切なことだと思う。すくなくとも、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール−』では、冷たい視線ではなくて、彼みずからの視点から「恋愛」の中にあるひとつひとつの形式を言及していくことによって、何が危うく何が大切なものであるのか、また、何を大切にしなければならないのか、ということに焦点を置く。
 
 安部公房の云う通り「すべての小説は恋愛小説の変形である」のだから、恋愛について考えておくことは悪くはない提案だと思う。また、小説を書くという作業は恋に近い。焦燥と安堵と裏切りと伝達のもどかしさ、自分の気持ち、過去、現在、そして、未来への幻想、再び厳しい現実、へと巡る心の動きというものは、小説を書く作業と全く一緒である。これは、心理学的にも創造するということが「産む」ということである限り、そこに注がれる愛情は、今、自分の持ち得る愛情、または、かつて注がれて来た愛情以上のものを与えない、という論理から成り立っている。
 
 ……と、ここまで書いたのだけれど、どうもバルトのようにスムーズには書けない。照れもあろうし、云うか云わぬかの間にいる自分を想うのであろう。
 ただ、『恋愛のディスクール−』を読んでいる途中に感じ続けたのは、その章のタイトルがまことに適切である、ということだろうか。これは、バルトの目の適切さを示しているし、また、バルトの生き方が非常にただしいと私に思わせる結果だと思う。
 
 何によって楽になるのかはひとそれぞれだと思う。
 つまりは、私は『恋愛のディスクール・断章』を読み、楽になった。
 それが個人体験の共有であり、谷山浩子の云う「夢の共有」という現実性なのかもしれない。

update: 1997/12/18
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