書評日記 第388冊
風の博物誌 ライアル・ワトソン
河出文庫

 数々の科学がその研究態度を蛸壺化してしまう中で、このタイトルにあるような「博物」学視点は今後の科学の発展ないし応用を考える上で不可欠ではないだろうか、と私は思った。
 すべては発展のためとしてあらゆるものをかなぐり捨てて暴走してしまう最新技術に対して、それを一般大衆(その分野の専門以外の人達)に説明するテクニカルライターという職種もあるようなのだが、単なるルポルタージュではまかない切れない、やはり科学を信奉する人でなければいけないものが、この本の中には詰まっているし、ライアル・ワトソンはそういう人だと思う。
 
 ある意味で科学には思想が必要ない。個々人の思想や価値観ではなくて、総体的な生物界・科学界としての共通言語があるに過ぎず、それは唯一の思想を共有するのだと思う。むろん、これはキリスト教を信仰するキリスト教信者のように、唯一無二の存在として自分の信奉があるわけだから、他の思想概念を持つ科学者もいるのだと思う。だが、それでもなお、「ガイア」という言葉の中に潜む、共通感情を共有するというユング心理学的な考え方に惹かれるとしてもあながち不幸なことではないと思う。少なくとも、私は「科学」の道筋がライアル・ワトソンの進む場所にも在ることを確信し始めている。
 それはかつての博物学の復興なのかもしれない。専門分野に閉じこもってしまって他の学問との差別化だけを目的として、学者と研究者と教授を量産するための論文と博士たちを目の前にすれば、一生のうちにこの膨大な情報をどのように扱っていいものか、と呆然となってしまうに違いない。もちろん、学術研究は研究者達の御遊びの道具として資本主義社会の中に埋没して年金と老後を楽しみに日々の1年サイクルに満たない目の前の仕事に没頭してしまうのもの悪くはない人生だと思う。いや、「人生」というような長い目を持たずにその場その場の日常の中にこそ最大の価値を以っていると思い込めば、大学や数々の研究所で行なわれる学術研究なぞは、SFやホラー小説のネタか、情報TV番組で見られるもの、でしかないものになり得る。だけれども、そうではないとしたら、と私は考えてしまう。このあたりが「理系」な私なのだと思う。
 
 知る喜びと楽しみは知った者でしか味わえない。また、知ろうとしている人にしかそれを分かち合える可能性はない。だから、インテリゲンチャとモラルとの融合から得られる数々の発見(または発現)はそれほどたくさんの人達と共有できるものではないかもしれない。ある視点からは内輪的な秘め事に見えるかもしれない。
 だけれども、それこそが人それぞれであるならば、致し方が無いことでもあろうし、それを何らかの形で共有していこうという方法と実行が、この文章を書かせるに過ぎない。これは高橋源一郎著『文学王』にも書かれていることだし、谷山浩子は「夢の共有」という言葉を使っている。
 見知らぬ他人の思惑に脅えてしまうのではなくて、まずは、隣の人を理解しようとする気持ち、そして、いろいろな感情を共有したいという気持ち。それが閉鎖的ではない開放としての仲間を作り上げ、決定的な争いの無い世界を創るとすれば、それに参画しようとするのが私の心だと思う。

update: 1997/12/30
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