書評日記 第415冊
筒井康隆
新潮社 ISBNISBN4-10-00662-6

 帯より『歳をとってしまうと書けない小説というものがあると思う。主人公と作者の年齢の隔たりがなければ見えてこないその年齢の「敵」。これ以後は常に「これが最後の作品」と思いながら書き続けなければならないのだろう。』
 と共に、かなり弱気な筒井康隆の肖像写真がある。おい。しっかりせんか。こら。

 「老い」を恍惚に描き切る。『虚構船団』に匹敵する評価を与えるべきかどうか悩む。『邪眼鳥』より随分と復活(?)している文筆力を感じるのだが、果たして、これを「筒井文学」と呼ぶべきか否か、私は悩む。
 精緻な食事の描写、性欲の描写、そして、夢、幻想、恍惚へとないまぜに移っていくストーリー(?)はまさしく筒井康隆の得意とするところだと思う。『廣野の彼方へ』(…だったか?)と『夢の木分岐点』の間のようなスタンス。実験的という点では『???』(あるぱかが最初に出てくる本…度忘れが激しい)のような精密さを感じる。川端康成の老獪さとは違う、谷崎潤一郎寄りなのか。

 文章を分析しよう。圧倒的に読点が少ない。効果的な当て字を使う。速読と熟読の間に位置するスピードを保つ。ほとんどふざけない。逸脱しない文体の中からストーリーは微妙に現実から遊離するのがすばらしい。
 なんか、べた賞めになっているけれども、私にとって筒井康隆は「特別」であるので仕方がない。ただし、特別であるからこそ、彼の為した『敵』の冒険は私にとって刺激的である。
 悪く言えば、彼の歳になったからこそ描くことが出来た文体であろうということ。それは誉め言葉になりこそすれ貶すことにはならないと思う。一足飛びでは得られない筒井康隆という作家を数十年続けていたからこそ得られた極致であると思う。
 だが、一抹の不安を述べれば、ここに至ってしまった筒井康隆はこの文法をどう生かすのだろうか、という不安であろうか。ここにのめり込むのは余り得策とは言えない。なぜならば「極致」という言葉を使ってしまうほどに注意深く文章が組み立てられていると思う。だからこそ、ここで終点と思われるような作品を残すのはどうか、と私は考えてしまう。もちろん、完璧なぞないわけだし、最後の方では描き切ることが不可能であるからこその描画不足が見え隠れする。むろん、そんな不足を気にする必要がない。なぜならば、この時代では無理のような気がするからである。

 何故「無理」なのか。
 それは、『敵』に描かれるものが解説不可能なものだからに違いない。解説不可能だかこそ小説として描かなければ伝わらないという不備を内蔵している。簡単に言えばユング心理学の真髄とも言えるものなのだが、養老孟司の言う『老いれば誰もが二元論になる。だから、今は唯物論で解いてみたいと思う』というようなものだと思う。また、これを理解するには一定の経験を積まなければならないと思う。そして、一定の年齢にならなければならないと思う。
 そうなると、私が理解しているかどうかは怪しくなる。だが、そう「理解」すると思わせるほどの魅力と迫力が『敵』の中にあり、私自身が見つけ出した雰囲気を其処に見出すことが出来た事実を考え合わせれば、少なくとも個人的には推すことのできる作品だと思う。

 皮肉を言えば、断筆宣言以降にある時代性を『敵』は含んでいる。場合によっては陳腐化されなくもない様式が『敵』には見られる。だが、何よりの甘美なのは『敵』の中に含まれる毒であろうか。「老い」の中に見られる現実への執着は老いた頭脳が醸し出す幻想へ漂うことによって解決されていく。そこには「死」への恐れはない。耄碌を恐れる主人公は耄碌の世界へと漂い始めた時、すでに耄碌を恐れることを忘れ去ってしまう。恐怖でさえ自分で創り出し脅えてみせる世界は、自殺とも老衰ともつかない形で正常な精神を蝕んでいく。だが、蝕むにしろ先の時間に乏しい老齢者にとってそれは治すべき病理であるかどうか定かではない。
 飛び去ってしまう現実に対して未練を残すことはなく、耄碌した頭が醸し出す夢は生物として老いることに恐怖を持たないようにする親切な麻薬に違いない。

update: 1998/2/9
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