書評日記 第418冊
麦秋 小津安次郎
松竹

 幾度となく見続けることのできる小津安映画にはストーリーがない。映画の結末を知っていても観ることのできる深みがあると思う。それは「ネタばれ」を避けるミステリー小説とは全く違ったものがある。結末は映画の結末に過ぎず、汲み取るべきストーリーは映画のストーリーの中にはない。

 原節子演ずる範子は結婚しそびれた28才の女性である。結婚という制度と個人の幸せが交錯する。最後に秋田へと嫁いでいくことを決める範子の行為は離れ離れになってしまう家族をつくる。だが『欲を云えば切りがないよ』という2度ある父親の科白は、新しい家族と古い家族の間にある決して成り行きではない「成り行き」を示している。
 
 実は昭和20年代に作られた小津映画はきわどいところの「個人」を主張する。国家も家族も個人も渾然となった戦争が終結し、あたら自由と個人と解放が焼け跡に蔓延ったあとは、一丸となる目的を失った民衆の姿ではなかったろうか。結果的に復興する日本を支えたのは会社員が生み出した高度経済成長であった。それを見据えつつ過ごした昭和20年代という敗戦直後の時代は、会社員と個人とが反発しあいながらも、再び会社という大きな枠組みの中へと組み込まれつつある不安を感じていた時ではなかったろうか。
 今で云えば、「婚期」という言葉は古いかもしれない。まさしく、「婚期なんて古い」という科白があちこちで聞かれるに対して、一方でコンピュータによる結婚斡旋が広告のメインになりつつある。言わば、婚期を逃してしまった男性のために、また、婚期を逃してしまった経済力のある男性を好む女性のために、結婚斡旋が広がる。
 ただ、原節子は云うのだ。『私、40才になっても結婚していない男性ってなんか信じられないの。それに比べたら子供のいる人の方が信じられるわ』と。
 結婚斡旋のアンケートに身長・年収の他に「ボクシングは好きですか」という項目がある。いわゆる荒々しさを好むか、という問いなのだが、それを加えるほどにそこには何か奇妙な切迫感を感じる。

 実は、小津安映画は「東京」にこだわり過ぎる。都会である東京に住むことをステータスとして、東京以外に行くことを大変なことだというテーゼを持っている。そして、同時に都会に暮らすのも個人であり、郊外に暮らすのも個人であるという、個人の主張がある。すくなくとも、東京と東京以外の住み処を求めて人々は惑う。この辺り、東京を素通りしてしまう山田洋次と決定的な違いがある。
 だが、そんな東京があったからこそ、美しいままの原節子がいて、結婚しなかった小津安二郎がいた。すべては空疎な夢であったのか、それとも、泥臭い現実になり得る夢であったのか、というところだろうか。残し得た作品はすばらしい。だが、晩年の原節子や小津安二郎がどう過ごしたかを考えると何かひっかかりが残る。

 個人を主張しながら、個人を譲る。譲りながらも個人を主張する。個が個に寄り添うことによって結婚という事実、そして、夫婦というものが産まれるのであれば、そこに必要なものは個人の中で抱え込んでいる「幸せの定型」だと思う。継続する「幸せの定型」を掴めばこそ「しあわせの街・東京」が崩れ去る。幻想となって崩れ落ちる。そして、東京以外の土地に行ってみようという現実を掴み始める。つまりは、他人の幸せと自分の幸せが違うということがはっきりする。幸せに見えることを求めるのではなくて、幸せになろうとする。
 それが、どこにでも転がっている現実なのか、特別なものなのか私には分からない。だが、ひとつ行動しなくては掴めない現実がある。それが非常に私的なことであっても一番の幸せには違いないだろう。

update: 1998/2/14
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