書評日記 第432冊
革命のふたつの夜 筒井康隆
角川文庫 ISBNISBN4-04-130507-1

 実は『東京大学物語』を再読している途中なのだが、それの感想(?)を書き付ける前にこれを読んでいる。

 筒井康隆は〈毒〉を持っている。江川達也が筒井康隆の描くSFから〈毒〉を意識的に受け継いだかよくわからないが、読者としての私の立場から言えば、筒井康隆と江川達也の作品の魅力は似ている。
 私が漫画家を目指していた頃、私は自分の絵の平坦さに辟易しはじめた。今、改めて見れば、書き続けることによってなんとかなったかもしれないウヌボレを感じることもあるのだが、それは所詮、書き続けることができなかった事実から程遠い感想でしかない。ただ、当時、自分の絵柄に対して苦しく感じていたのは、自分の中にある〈毒〉の表現手段の持たなさであった。漫画家として第一に出てくる魅力は絵柄であるからこそ、第一印象といして何かを掴むことが可能な絵柄を私は求めていたのだが、それは書き続けることによって得られるものでありこそすれ、書き始める時には未だ得られていないものであることを、当時の私は知らなかった。
 
 〈毒〉とは云うが、それは個性というものとは違う。奇才・異才と呼ばれるマスコミが宣伝するための道具立てではない。あくまで個人と作家がつながる部分、ひいては、ミームが伝達される部分であろうか。そういう魅力を私は筒井康隆の小説に感じる。
 「強烈な印象」という言葉や、「ツツイズム」という隠語で現してしまっても良い。ほかには見られないものがあることは確かであるし、実際、筒井康隆のファンは、小説家である彼を他の小説家とは別格である場所に据えることを惜しまない。もちろん、どの作家のファンであっても、そういう心理的な仕掛けを編み出すだろうが、ただ、私個人の立場から言えば、一般大衆を嫌悪すればこそ、一般常識を疑うからこそ、それらの中にある「個人主義」という言葉がうそ臭さを醸し出してしまうからこそ、実践的な表現者として、かつ、実際に生きて来た証拠として、筒井康隆の各種の言動を彼の云う意味での〈毒〉として私自身にも必要不可欠なものとすることに若くはない、というところだろう。
 当然、それらの盲目的とも言える賛美が、筒井康隆の作品を知らない人や好ましく思わない人にとっては、伝達不可能なものであるとしても。
 
 ただ、はっきりと言えるのは、藤島康介の描く『ああ女神さま』よりも、江川達也の描く『東京大学物語』の方が断然、リアルであると私は思う。ゆえに、『ああ女神さま』がどれほど売れていようとも、その〈毒〉の無さにいまひとつの不満を持ってしまう。
 また、南伸坊や赤瀬川原平のもつ「おもしろさへの視点」が時々つまらなく感じてしまうのは、一般大衆に理解され得るものしか語らない、または、語り得ない――正確には、大衆の一歩先を行くというジャーナリズムの特性をわきまえているに過ぎない――ところではないだろうか、と私は思う。
 新しい視点だとか、流行だとか、エロティシズムだとか、そういう解説的なものは社会学的な視点でしかない。
 ただ、唯一、個人の目から筒井康隆という作家が居て、彼の語る〈毒〉が彼の持つ感性の鋭さと正しさを物語っているのだと私は思う。
 P・K・ディックやカート・ヴォネガットと同じ根拠を共有しているのだと思う。

update: 1998/6/21
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