書評日記 第441冊
テレビジョン・シティ 長野まゆみ
河出文庫

 アナナスという少年の名、イーイーという少年の名、から連想するのは「宮澤賢治」というジャンルであり、また、其処にどっぷりと浸かることのできる小説である。
 長野まゆみの小説は、宮澤賢治の香りがする。石のにおいがたっぷりとする小説は、けたたましい現代社会においてのひとしずくの清涼剤なのかもしれない。また、けたたましい現代社会において、ひどく離反してしまったものに見えるのは当然のことかもしれない。
 
 上下二巻にわたる幻想の世界は、倉橋由美子著『ポポイ』以来だと思う。筒井康隆著『パプリカ』もそうかもしれない。ただ、幻想の世界とはいえ、童話とは異なる。大人の童謡であって、過ぎてしまったからこそ思い出すことのできる、そして、ひょっとすると帰ることができるかもしれない――と私は本気で思う――時空間が現出される。反対語である「現実」に対しての「幻想」という言葉は、実のところは私的な現実、つまり、私自身が見る現実社会ないしは私自身が参加する現実社会、そして、現実の未来、という形を示しているのではないだろうか。それは、理想や理念とは違ったところにある、現在の自分に密着した形での未来の姿だと思う。

 さて、小説…というより物語の舞台は別世界である。とある意味で、ますむらひろしの描く「アタゴオル」と同じかもしれない。ただ、私が男性だから思うのかもしれないが、長野まゆみという女性作家が描く「少年」の姿は、いわゆる、「彼女たちの描く少年」を思わせる。それは、自分の過去にある少年期――たとえば、妹尾河童著『少年H』とか、安彦良和著『アリオン』とか――の現実的なものではなくて、少女――むろん、この「少女」という言葉も男性である私から見た言葉に過ぎないのだが――たちが永遠に思い描く決して現実では有り得ない「少年」という肖像のように思える。
 端的に評すれば、長野まゆみの描く物語は、「母親」の匂いがしない。

 ごく私的に言えば、溺れるのが危険と思わせるほどの、力量を彼女は持っている。そして、実際に、溺れるほどの深味を彼女の世界は持っている。実のところは、「宮澤賢治ワールド」という言葉で締めくくられる閉空間なのかもしれないが、それでもなお、『テレビジョン・シティ』を読んで、私の未来はこうありたいという願望を再び蘇らせることができるのは何故だろうか。
 
 一言付け加えれば、読んで、説明するには恥ずかしい物語だった。自分の中にひっそりと持っておくのがベスト。
 それを、筒井康隆風に言えば「悪書」という。

update: 1998/9/28
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