書評日記 第444冊
神の悪フザケ 山田花子
青林堂 ISBNISBN4-7926-0261-0

 私には山田花子という漫画家と「自殺」という言葉と切り離すことができない。これは、山田花子の漫画を彼女が生きていた頃に読まなかったからだと思う。そういうところから、私にとって、彼女の漫画は、決して正当に評価できるものではない。
 
 とある意味で、私は彼女の生き方(または死に方)が好きではない。世間というものを冷めた見方で眺める、また、観察対象として見てしまう「他人」の姿と、それに対比する自分の姿とを、別世界のものとして私が考えることができないからだと思う。また、そrが出来る人たち――内田春菊とか――を「不思議」に思うことが多々ある。
 それは、いじめる側・いじめられる側、加害者・被害者という上下関係の中で、私が「男性であるがゆえに上」であり、「長男であるがゆえに上」であり、「成績が良かったがゆえに上」である、という場所に安住し続けていたからだと思う。もちろん、それらの配置はひとつの社会でしか通用しないものであり、また、それを私は知ることになり、何とはなしにうまくいかない人生が10余年、私の過去に横たわっているのである。
 ひどく、何かに気付いたときに、世の中の胡散臭さに付いていくことが出来なくなり、かつ、それに対応するほど器用ではなく、同時に、逃亡と唾棄と軽蔑と憤懣とを抽象的な形で繰り返し、そして、一般社会に適応しつつある今の自分の立場を思うと、愚かしく、恥ずかしく思う。恥ずかしい自分を人目に晒したくなく、また、一般に比するほど外れてはいない心情を暴露されたくないために、私は他人との距離を極端に取る。それが、私の死なないための防衛策であったことは確かなことである。

 そういうところからすれば、突き詰めてしまう私小説的生活を続け、内層へと沈殿して行き、悩むことしかできない日々を送り、そして、結局のところ大きくは変化しない――もちろん、「良い」方へ――社会に気付いてしまえば、極端に「友達」という言葉に常態に憧れてみたりもする。
 ただし、今にして分かるのだが、三島由紀夫自身が友人がいなかったと独りごちてしまうように、みずからの孤高さをみずからが崇めるようになってしまえば、「友達」という幻想は、決して叶えられないものになってしまう。

 「なぜ『生』を受けたのだろうか」と考えるのは、今や等しく間違っているのかもしれないが、それでも考えたい時があるのは、また、時期があるのは、何故なのだろう。

 私には山田花子の漫画を「おもしろい」と言うことは出来ない。
 私にはひたすら避けて通りたい作品である。

update: 1998/10/05
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