書評日記 第449冊
安野光雅のポスター 安野光雅
岩崎書店 ISBNISBN4-265-94446-9

 サブタイトルは「安野光雅の本と芝居のポスター」である。
 主に井上ひさし作の芝居のポスターが載っている。
 
 安野光雅の風景画・絵本が一般に流布し始めたの何時からなのだろうか。私が彼の絵を知ったのは、小学5年生の頃にあった「あそびの博物館」の挿し絵ではなかっただろうか。それ依然に、彼の絵本を見つけては買いたい――小学生にとっては、絵本は手に入れられないほど高額なものなのである――と思っていたことを覚えている。
 高校の頃に、再び彼の絵と出会う。私にとって、安野光雅の絵は、エッシャーの絵と同列にある。ふと、大衆嗜好の中にあるがための「二流」という言葉が頭をよぎるのだが、いわさきちひろや、永田萌や、山藤章二が、私の中でなじみであり、親しみの対象であるために、そんな特殊性を持たなければ、無理解性がなければ、一流を保持できないような、二流という言葉を排他的に生み出しては、それに支えらざるを得ない拠り所の無さを、彼ら以外のものに感じてしまうのである。
 それは、単純な個人的な好み、というものかもしれない。
 現在において、絶対性なぞというものは、相対という言葉が意識しはじめた時点で、個人主義という運動が開始されはじめた時点で、消え去ってしまったのだろう。あるのは、個人的な経緯を踏まえたところにある、自己中心的な「好み」とその根拠に過ぎないのだろう。
 
 あいにく(?)、安野光雅の絵は、彼の絵をほしいと公言できるほどに一般的なものである。そして、庶民的である。
 多分、前衛的なグロテスクとパロデイとノイズの絵が、日常を豊かなものにしない――もちろん、「刺激」を求めるのだから、非日常的であってかまわない――ということが、私の好みから外れてしまう所以なのかもしれない。

 ただ、空山基の画集がほしいと思うほどに、私は長岡秀星と超リアリズムに憧れていた時期がある。
 理解しないものを理解しない自由があって、それでいて、理解しようと努めるわけなのだろうが、ただ、まあ、暮らしの中で培われる好みとリビドーが素直に表に出てくるか否かということだ。

update: 1998/10/11
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