書評日記 第461冊
日本語と日本人の心 大江健三郎 河合隼雄 谷川俊太郎
岩波書店 ISBNISBN4-00-001726-6

 1995年に小樽で行われた講演会の記録である。
 日本のノーベル文学賞作家、日本のユング心理学の第一人者、日本の詩人の第一人者、という顔揃えは、学術嗜好たっぷりの趣と試算があるような気がする…、が、「日本」という執着で語られるものを追求するには、この顔ぶれは非常に的確なものと思われる。
 一部、上野千鶴子著『発情装置』を読んだ後なので、ちょっとひねくれぎみ。
 
 この講演で語られるのは、「世界の中の日本」ではなくて、「日本」である。「世界にはばたく日本」ではなくて、「日本」である。「世界の孤児、日本」ではなくて、「日本」である。幸か不幸か日本語という言語を母国語=思考言語として持った私(たち)にとって、国際共通語と云われる英語ではなくて、ヨーロッパでもなく、アメリカでもない、日本という国土に育ち、そして、日本という場所と国の下で日本語を使って会話=意志の疎通をしていくことは、どいうことなのか、ということである。
 つまり、日本語が下手になり、日本語の扱いがぞんざいになり、語る言葉も書く言葉もかつてのやまと言葉からかけ離れつつある現代の日本語というものを、見直す。「やまと言葉」とは云うが、日本古典文章に回帰せよというわけではなく、日本語文化の潮流の末端にある現代日本という場所で使われる書き乃至話し言葉を、ある種の「方言」として身内に保っていくことを続けようとする。
 
 ただ、誰もが感じると思うのだが、大江健三郎の日本語は決して「日本語」らしいものではない。あくまで彼個人の語り口であり、あくまで彼個人の探求の結果(?)から導き出された手法、のような違和感をぬぐい去ることができない。
 谷川俊太郎の詩で使われる言葉は、決して日常会話的なものではなく、「日本のユング心理学」を培った河合隼雄は方言である大阪弁に大きな拠り所がある。
 しかし、その中で唯一共通であるもの、また、巷にあふれる小説やエッセーに見出しているものは、日本ならではの暗黙知であり、親の話していた言葉を使うという歴史的な経緯だと思う。
 それが、英語では表せない表現になり気持ちであり、しかし、根底であればこそ訳すことが可能である普遍性であり、だからこそ、不可逆的な多様性を内包していることを意識しなくてはいけない、と私は思う。

 とか書くと、日本語擁護派に見えるけれども、SF小説で中学生時代を過ごした私には、大江健三郎の書く翻訳文調があまり気にならない、ということだろう。それでも主格と目的格が抜かれることが多いが。

update: 1998/11/16
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