書評日記 第465冊
イマジン・ノート 槇村さとる
集英社

 別に作品を持ちながらも自伝という形で自己を明らかにしてしまうことに衝撃を与えられたのは、内田春菊の『ファザー・ファッカー』以来だと思う。
 大学1年の頃に読んだ『まみあな四重奏』から私は槇村さとるの虜になった。まさしく虜という言葉通り、彼女の過去の作品を買い漁り、現在進行形の漫画を読み、そして、彼女の絵柄を真似した。
 だからなのかもしれないが、私にとって『イマジン・ノート』はずっと待ち焦がれていた本のような気がする。
 漫画家のようすは漫画から得たものから想像するしかない。作者と作品は別のものであるから、単純に漫画から漫画家を想像すると、あらぬ妄想を組み立てることになる。しかし、長い間、槇村さとるという漫画家の作品を追い続けてきた私にとって、槇村さとるの思考スタイルは、現実の彼女自身が語る彼女の思考スタイル、そして、過去とそれほど違和感なく受け止められたような気がする。また、本人のイメージをずらすことなく、『イマジン・ノート』を読み終えることが出来たような気がする。
 
 『イマジン・ノート』で槇村さとるが語るようにスケートものやダンスもので培われたデッサンの確かさは彼女の最大の武器であり魅力である。だから、『白のファルーカ』終了後から『おいしい関係』開始までの間、底の浅いと思われるような形式的な漫画を量産しながらも、漫画家を続けて行けたことは、彼女の絵の実力や担当者やスタッフなどの底力を意味しているように思える。
 幸か不幸か、漫画家は描かねば読者に忘れ去れてしまう存在である。むろん、つげ義春のようなマニアックなスタイルを求めれば漫画家としての別の進め方があるのかもしれないが、槇村さとるの場合は彼女自身の過去がそれを許さなかった。描き続けることこそが彼女自身の過去を清算することであり、同時に新たな視野を得ることになった。
 その経緯が、『放課後』から続く多作漫画家である槇村さとるの作品の流れそのものであることに、私は愕然とせざるを得なかった。
 血肉のある作品。その隙間から垣間見られる槇村さとるの人生が、彼女の制作した作品の経緯と一致するのだ、ということだと思う。

update: 1998/01/16
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