書評日記 第467冊
イーハトーヴ乱入記 ますむらひろし
ちくま新書

 宮澤賢治のすばらしさは、彼の後継者――正確に言えば彼の魅力あるアイデアに賛同するひと――をたくさん創ったことだろう。
 
 『永訣の朝』が小学校の教科書に載り、先生が児童に朗読させるのはなぜだろうか。ますむらひろしは山形の田舎で育った。小学校では標準語で話し、家で話す時や友達と遊ぶときに方言を使う。猪教室の中では使ってはいけない(ような気がする)方言を国語の時間の堂々と使うことの意味は、子供にとって苦笑でしか対処できない雰囲気を残す意味と同じである。本音と建前というほどの区別ではないにしろ、身内にある汚泥をさらけ出された恥ずかしさがあるのかもしれない。
 私の育った大宮では方言が無い。正確に言えば、ちょっとした方言はあるのだろうが、『永訣の朝』ほどの方言はない。そんな場所で朗読される方言たっぷりの『永訣の朝』も、苦笑して迎えた覚えがある。
 〈汚泥〉という単語を使ったが、外に出ればこそ羞恥の対象になる脆さをもっているものの、内に秘めて言葉に出さなければ厳然としてどっしりと心の中央に胡座を掻いているものであり、美醜とは全く別のものである。言葉に出せばなにかと気恥ずかしく、共有するほどのものではないような気がして、理想だけに凝り固まったような気がし、単なる幻想を抱えているような愚かさを感じるものがそれである。
 それをいわゆる「童心」なり「無垢な」なりの言葉で表現してしまうと、当時はアメリカナイズされていない野暮ったさであり、単に幻想なだけのシラケに変わってしまうのであった。
 それらを「心の隅に残す」や「現在の生活に取り戻す」という形で再帰しようとするのは、「癒し」という言葉が流行してしまうのと、誰もが「アダルト・チルドレン」であるように見えてしまったり自覚してしまったりすることと同じような気がする。

 現在の日本社会の中で、ますむらひろしの描いた猫版の『銀河鉄道の夜』が広く受け入れられることは、経済的にそのようなものが採算の取れるものであった、という事実を示しているに過ぎず、宮澤賢治からますまひろしに伝わり、そして原点で宮澤賢治の働きかけて来た〈生活〉を現在の日本社会が広く肯定していることとは全く別なのである。
 そうだからこそ、自分の中にある感触を幾度となく自分なりに捉え直す機会がたくさん必要なのではないだろうか。
 そんなことを感じた。

update: 1998/01/19
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