書評日記 第475冊
セックス神話解体新書 小倉千加子
ちくま文庫 ISBNISBN4-480-03085-9

 『男流文学論』の共著のひとり。心理学者である。
 
 そう、本書はユング心理学批判ということになっている。著者が言っているので間違いない。フロイト心理学もユング心理学も実のところは男性のための心理学であることが否めない。男性性・女性性という用語にしろ、まだしも、フロイト心理学のほうが男尊女卑思想から見てフェアであるように思えるふしもある。「男」が切り裂くものであり、「女」が包括するものである、という象徴(シンボルないしメタファー)的な使い方は、じ現実の男女にそのまま置き換えてしまう混乱を持っている。また、ユング心理学が深層心理にある数々の象徴を元にして人間の言動を語っていく以上、男女という二つの項目を対立させる表現の仕方から抜け出すことはできない。ゆえに、自然であろうとすることが、男としての自然体・女としての自然体を求めることとイコールであるならば、一体、現代社会の「文化」とは何か、ということになる。つまり、自然から遠く離れたところに文化的な女性の一個人的な生き方がある、と著者・小倉千加子は言うのである。
 「性教育のコード」として求められていくものは、男性社会が作って来た不均衡な性幻想をひとつひとつ崩していくことである。通勤電車で広げられるスポーツ新聞には、なぜ女の裸が載っているのか、ということに対して疑問を抱くことにある。これを、じゃあ男の裸も載せればよい、としてしまうのもひとつの方法ではあるのだが、それはスノッブな猥雑さと文化基準との混同であり、事実そのような浅墓な方法は失敗している。問題は別のところにある。そして、決して解決されない部分でもある。解決されないと私は書くのは、個人レベルでは解決でき、社会レベルでは解決されないということを示している。それは、そもそも心理学が西洋の発祥のもので連綿と続いた日本の歴史にそぐわないという理由でもあり、明らかに上野千鶴子らが培って来た社会学者の想像する未来が個人レベルでは成り立ちつつあることを理由にしている。
 そういう歴史的な経緯と現在との相関を小倉千加子は語っている。
 
 小倉千加子は「性欲は本能ではない」とする。性欲を語るのは男性の作った保健体育の教科書で、男性のそれと女性のそれは違うものだ、と意識付けられる。また、いままで女性には性欲があるとは知られていなかったし、それまで女性には性欲が無かった。明治の女性が全くの性処理体であったことと、そう彼女たちが感じていたこと、そして、近年男性の性欲は強くなったために日本の女性が夫が東南アジアに女を買いに行くことを容認すること。東南アジアの女とのセックスは浮気ではないとされ、日本のご近所で求めると不倫になること。つまり、あちこちに出回る「発情装置」に男性も女性も(特に男性の作った発情装置に女性が)躍らされていることを警告する。そして、男性の作った心理学や性科学によって、女性の欲望があるものとして認められ、男性の作った快感曲線により女性は男性よりも快感を得ているものとする。同時に、性欲があることによって子供が絶えないことになり、クリトリスよりもヴァギナの方が感じる、ということになっている。また、騎上位、松葉崩し、鶏姦、などを発明し、一番快感を得られるであろう正常位から離れアクロバット的な体位を作ることによって男性の征服欲を満たし女性が本来持っているとされている服従欲ないし抱擁心を満たす、という理論がまかり通る。
 それらの科学が理論的に正しいかどうかは別として、そういう男性性的な男性が多数を占めることと同時に女性性的な女性を多く作って来た、ことが問題になるのである。大多数はそれで社会的にも人間的にも満足なのだが「社会の縁」に軋轢が出て来る。また、軋轢が情報社会により大きくクローズアップされて各人が何かに気付いてしまう。本来なら気付かない部分に触れたために歪みが増大するのである。
 それすら含めて「文化」だと言い切るのは難しい。だが、言い切るべきだと私は思う。それこそが、象徴的でしかない自然体から遠く離れる唯一の方法だと思う。

update: 1999/02/05
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