書評日記 第481冊
慟哭 貫井徳郎
創元推理文庫 ISBN4-488-42501-1
 貫井徳郎(ぬくいとくろう)の25歳のデビュー作。
 
 いきなり余談になるが、最近の小説界は「新鋭気鋭の新人デビュー」という天才肌を主張する触れ込み作家(平野啓一郎、京極夏彦、森博嗣、など)と熟年層の辛苦の上での受賞である作家(浅田次郎、櫛田節子、宮城谷昌光、など)とに二分される。社会が不況だから突破口を求め、同時に、能力主義に移行しようとする苦しみから年期の生み出す実力の再認識を求めた、結果と言える。いわゆる10年間の新人小説家の不遇時代は、世の中の才能が、漫画家→ゲームデザイナー→小説家(特にミステリー作家)という形で流れて来た経緯を示している。
 ただし、個人的な人生において決して器用には立ち廻ることのない表現と表現方法の組み合わせは、それぞれの才能の突出具合に不安を感じさせもする。
 
 が、貫井徳郎の文章、そして、文章の構成力は一定基準を満たし、その上に彼の個性がある。それは一種の「安定性」として興味ある奇異さを排除するものではあるが、彼が小説を書き続けるためには非常に重要な要素である。つまり、平野啓一郎の奇異さとは異なる。――井上ひさしの新刊(題名を失念)が意図的かつ一貫した旧かなづかいで書かれていることに比較すれば、平野啓一郎の奇異さはデビュー当時の「奇異さ」でしかなくなってしまうのである。
 
 解説の椎谷健吾の言う通り、『慟哭』はあたかも社会派ミステリーを彷彿させる要素がふんだんに含まれている。これは、松本清張ばりの社会派作家のことを意味するわけではないのだが、単なる頭脳遊戯ではない――蔑視にあらず!――ミステリー小説を受け付けない、なにかの意味をにおわせて欲しい読者、つまり、私自身のような読者には、受け入れやすい小説であった。テレビドラマの『赤かぶ刑事』を見ている気分…というと大袈裟だろうか。
 トリックは別段特異なものではなく、どちらかといえばよく練られた文章と過不足無いストーリー展開から、かえってトリックが読み取れてしまうかもしれない。MLではそういう人が多かった。
 だが、小説家が小説家であり続けるために必要な要素を持ち得る貫井徳郎は、今後も上質なミステリー小説を書き続けるに違いないし、実際、書いている。
 多分、新興宗教がキーポイントになる点が社会派を意識させるのであろうし、読者が否応無く社会派を意識してしまうのであろう。

update: 1999/04/11
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