書評日記 第483冊
五分後の世界 村上龍
幻冬文庫 ISBN4-87728-444-3

 解説で巽孝之が主張する「50頁に及ぶ戦闘シーン」は圧巻であると同時に唯一の見所なのかもしれない。其処に至る経緯を一切省き、場面(シーン)としてだけの文字の羅列は、あたかも映画の流れる時間に等しい。『愛と幻想のファシズム』で村上龍が経済システムに固執したことが仇となってしまったことに対して、『五分後の世界』では小説の中にある閉鎖的なバランスを打破し、作られた物語の中にあるシステムへの固執うんぬんを唾棄してしまうスピードを保ったまま進むことができる。これは、巽孝之も云うところである。
 
 が、それ以上に村上龍の描く純日本人・小田桐への固執ないしは作者自身の投影は『長崎オランダ村』や『368Y(ヤード)Par4 第2打』を思わせて、あまり共感できるものではない。いや、投影された作者への共感を排除したとしても、積極的な拒否とも感じられる。
 これは、村上龍の書く小説全般に言えることなのだが、ある種の強さと強さへの憧憬の上に構築される閉鎖的な思想である。同時のこれこそが彼の小説の魅力であることは確かなのだが、いかんせん彼特有の強烈な匂いを消し去る文律を村上龍という作家は持ち得ないので、それ以上に至らないのが残念(?)なところだろう。
 
 都知事選を勝ち抜いた石原慎太郎の作る強烈なイメージと村上龍のイメージが私的に通じるのは、いわゆる「タカ派」と呼ばれるものに対しての徹底的な嫌悪感だと思う。
 動物的にアルファであるものと、将来的にアルファを狙うものとが遺伝子学的に云われぬ嫌悪感を持つのはゆえないものではない。だから、異常に気にするのである。

 いわゆる「勝利者」のイメージを投影し、「女」としてしか描写されない村上龍の小説の女性は、確かに村上春樹の都合のよい女性像よりも人間的ではあるのだが。そう感じるのは私が「男性」という性を持つからだろうが。
 
 タイムスリップという手法は、大江健三郎が『治療塔』を書いた時の言い訳と同様に見える。つまり、SFにある前出の手法を熟知しないがために前出の手法を再発見しているに過ぎない、と私は感じる。ともすれば、村上龍の読者には親切ではあろうが(同時に興味深いであろうが)、小説界全体を俯瞰すれば、「五分後」というキーワードは半村良の『戦国自衛隊』に酷似し過ぎている。せめて同国の小説ぐらいはフォローしておいて欲しい。

update: 1999/04/14
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