書評日記 第490冊
タイムスリップ・コンビナート 笙野頼子
文春文庫 ISBN4-16-759201-0

 メモ帳に万年筆で書いたのを写そう。
 
 この幻想的な文章は女性だからなのか。筒井康隆がモノにこだわれば、論理的になるのだが、笙野頼子は違う。私が男性だからかもしれないが、彼女のモノの見方は非常に女性的である。
 想像の波がピンク色がかっているように見える。
 読みながら眠ってしまった時、小説の続きを夢に見て、そして起きてからまた本を読むと夢の続きを読んでいるような気がした。
 解説で「ブレードランナー」のような映像、とあるが、それほど泥臭い感じはしない。むしろ、乾いていてすべすべしているような気がする。工場とか商店街とか、そういうものの身近に住んでいるからだろうか。
 確かに、解説でそう言われてみれば、沖縄会館のあたりや東芝の工場のあたりは、リドリー・スコットの映す画かもしれないが、それ以上に電車の中のシーンが白昼夢的で印象的である。「夢魔」という感じ。
 
 笙野頼子の小説は、妄想した「私」を中心に据えた私小説だと解かる。
 となれば、空想を私=作者の中に限定し、他人性を排除したところから、物語(または私小説)は始まるのだから、読者として共感できない人は全く共感できずに終わるのではないだろうか? …逆に云えば、普通の小説、ミステリー小説とか恋愛小説とかSFとかファンタジーとか、に共鳴できない読者のための狭間の小説だと云える。
 それが、「境界小説」ということなのだろう。

 ワープロ(と云っているがパソコン上でWZで)書くのと、万年筆で書くのとでは、書くスピードが異なる。最近、とみに思考のスピードが鈍って来て、ちょうど万年筆で書くスピードぐらいに低下(?)している。
 万年筆で書くと、そのゆっくりとしたスピードから、文章を書く時に複数の単語を頭に思い浮かべ選択することが可能になる。ワープロで書くと、個々の単語は即興でひとつに決め、文章を書きながら前の文の構文(や流れ)を直していたりする。
 どちらも書く手段として有効だと思う。以前は、ワープロ一辺倒にしようかと思ったが、「書く」場所は何処でもいいのだろう。非効率的だが、効率を求めて捨て去ってしまうものの方がずっと大きいことに最近気が付いた。
 
 笙野頼子の小説は、誰に対して価値があるのか、というよりも、彼女自身にまず第一があるのだろう。それは、大江健三郎が大江光を独り立ちさせる教育費を捻出する(真否はともかく)ために小説を書き、そして、止めたのと同じ発生源を持つのかもしれない。
 良くも悪くも、非常に私小説的である。

update: 1999/05/14
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