書評日記 第510冊
居場所もなかった 笙野頼子
講談社 ISBN4-06-206201-1

 図書館で借りる。
 初出誌「群像」
 「居場所もなかった」 1992年7月号
 「背中の穴」     1991年10月号
 
 笙野頼子は私的な小説を書く人だと思う。鳥尾敏雄のような私小説を書くわけではないが、ワタクシ的な事情をすべての事象を異化することによって単純な私小説化を避ける。だから、ある意味では『居場所もなかった』を読むときに引っ越しを経験したことのない人は小説側から共感を拒む部分が多いかもしれない。単純に云えば、「おもしろくない」かもしれない。もちろん、そういう考えもあるんだ、そういうこともあるんだ、という見知らぬ人に沿う共感もあるかもしれない。だが、普通に小説に耽溺するように「居場所もなかった」に溺れることはできないのと同様に、普通の小説に耽溺できないものが「居場所もなかった」にはある。
 とある女子学生専用のアパートを追い出されて、主人公はオートロック付きの部屋を探す。やがて不動産ワールドと呼ばれる現実世界ではありつつも、あたかも出口のないロールプレイングゲームをしているような堂々巡りの世界に入ってしまう。ふと、小説外の読者の目からは「オートロック」に拘りすぎる主人公=笙野頼子が阿呆らしく見える。しかし、何事も没頭してしまえば周りが見えなくなってくる心理状況を心の底に思い浮かべながら読み進めていくと――正確には、心理的に自分から堂々巡りに陥っている自分を小説が再発見させるのである――、単純に抛り出すには惜しい、いや、他の読者は知らないが私には面白い、という個人的な読書への親しみに戻ってくる。
  
 笙野頼子の小説で頻発する怪奇的な心理描写・心理の目から見た現実の描写は、「現実への異化の目」という文学技法ではあるけれど、それだけに留まらない。過剰すぎる異化は、あたかも一般人の目と心とは違った現実の捉え方――誤解を恐れずに云うならば「病理的な目」――を思わせるのだが、実のところは、心の動きをリアリズムに辿っていけば、あらゆる過去をひっくるめて錯綜する思いは一次元的な時間軸に沿う小説には似つかわしくないことを気付かせるのである。反って、笙野頼子の書く小説のようにランダムに並べられた空想の方が本物らしく見える。すなわち、普通の小説から零れ落ちてしまった「現実への忠実さ」が再現されているのである。
 むろん(?)、今においても発展途上であろう〈境界小説〉において、単なる観念小説から脱し、読者を念頭に置きつつも内面を向く作者の態度を、伝統的な文学のヒエラルキーの沿わせることは難しい。だから、どこかちぐはぐな感じもし、どこか詰まらないと口走らせる小説であると同時に、興味深い何かがあるような気がしてくる。

update: 1999/06/27
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