書評日記 第551冊
まぼろしの郊外 宮台真司
朝日文庫 ISBN4-02-261290-8

 宮台真司の本を読むのはこれが二度目である。かつて何処かの雑誌で「今後、宮台真司のような社会学をやりたくて社会学に入ってくる学生は多いだろう」と書いてあったが、どうなのだろうか。フィールドワークの対象としてテレクラ・援助交際などの性風俗を選んだ彼にとっては「社会学」はその切り口から見えてくる体系学問なのかもしれないが、「社会学」の持つ最大の弱点である無個性化に彼の論理は陥ってはいまいか、と私は懸念する。
 社会学に対するところの心理学や宗教学、名指してしまえばオウム真理教を弁護した中沢新一の存在は、対するところの酒鬼薔薇事件のゲーム性あるいは無感情・無理解のまま進められる現代的あるいは先進的なな犯罪にそれらの学問が無力である、ことの証になった暴露された、と宮台真司は語る。ただ、社会学の持つ傾向と個人の進む性向とは別のものであり、各個人がどれだけ現代社会の「まったり」としたあるいは「突発的な暴力性」に沈み込んでいようとも脱しうる力を持つのは確かなことなのだ。それこそが〈社会の縁〉であるし、翻って社会学の縁にあるところのカタルシスとは正反対の両翼を担っているといえる。
 むろん、オウム裁判で繰り広げられる括弧つきの「改心」のシーンは胡散臭さを禁じ得ない。一晩で改心できるほど人の心は柔軟ではない。しかし、日々の積み重ねを即否定してしまえるほど性善説を嫌っているわけではない。私たちは近親憎悪の言葉通り他人には疎遠でいられる。マスメディアが常に語りかける幻想に飽きてもいれば、確固な現実感を保って生きているわけではない。
 現実社会をひとつのフィールドとして捉え、限られた面からの切り出しによって平面像を作ることは難しいことではない。手間を掛けて足で稼ぐことによって実地としての現実を全体像を浮かび上がらせていく。上野千鶴子自身が言っていたことだが「社会学の先見性は数年後に一般化してしまうことにある」そういうジレンマを持つ。宮台真司が『まぼろしの郊外』で披露する性風俗の流動的な氾濫は徐々に治まりつつあるのかもしれない。それは幻想的な「少女」が性商品化されることによって得た解放イコール通過儀礼なのかもしれない。

update: 2000/03/22
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