書評日記 第562冊
戦闘美少女の精神分析 斎藤環
太田出版 ISBN4-87233-513-9

 5/22 に読了している。
 
 おたく文化ものには近づかないようにしている。推理小説やミステリー小説、ホラー小説を読まないようにすると読みたい/読むべき小説は圧倒的に減る。マニアックな世界(=趣味への耽溺)に憧れがないわけではないの。だが、ひとつの深みに填れば出て来られない恐怖がある。時間の無駄遣い、とまでは云わないものの、その熱意は一時的な流行に流される或いは寄り添うこと自体を目的として手段のみに埋没しかねないためだ。
 尤も、今此処で書いていること自体が埋没なのかもしれないが、数年来──という年月が流れている──の結果この方向に進むことが自分にとって一番無駄遣い意識の少ない分野であることを経験的に知るようになった。
 
 「戦闘美少女」をキーワードにして物申した本は多い。アニメから特撮からアイドルから〈少女〉をキーワードにして世界を語ろうとする人は多い。女性に売れるものが世の中で一番売れる、という本が出ていたのが私が浪人の時だから15年以上も同じ分野の本が出ている。
 メディアに出てくる少女が元気だから現実の少女達も元気かといえばそうではない、と「戦闘美少女の―」にある。モーニング娘を始めとして少女達(でもないのか?)が落ち込んだ社会を喚起する、のだが、一方でSMAPは相変わらず少女達(でもないのかな)に売れている。消費関係で云えば女性の方が消費金額は高いのだから(と思うのだけれど)社会消費ターゲットを女性に絞っているのも当然の理のような気がするのだが。
 ともあれ、「変体少女文字」以来、私の中では〈少女〉は意味のあるキーワードになっている。その少女像が現実世界から架空の世界へ、電脳アイドルやO-Net、出会いのメーリングリストへと拡大されて、一方で覗き趣味や猥褻物陳列系統(を否定する訳ではない)のホームページへと続く。
 稲垣足穂的に云えば「A感覚・V感覚」の部分から美少年=ファルスを持った美少女=ファリックガールへと続く「戦闘美少女の―」の流れは興味深い。……というよりもこの本はファリックガールに尽きる。最初の方は通常の美少女論ものと一線を画する形で書くと宣言しているものの、アニメにおける美少女の歴史は社会学的羅列があってどうというところはない。戦闘/非戦闘を問わず美少女の出るアニメ・実写作品の羅列になる。あいにく「ナウシカ論」や「紅一点論」を読んでいないのでそこから渡ってくる読者への道程は私には無用であり、さらに精神分析と社会学的考察の曖昧さがいまひとつ論旨の統一感を失わせてしまう。
 が、最終章におけるファリックガールの紹介は非常に興味深い。フロイト的に少女とはファルスを失った(あるいは切り落とされた/それを欲している)少年である、という論説を支点に戦闘美少女へと強引に持っていく。
 現実の美少女(?)と架空の美少女が完全に遊離している、という点に立ってこの本は展開される。が、一種混沌となってしまう部分もある。
 このあたり、全ての女性がフェミニズム的ではない且つあり得ないことに納得した(それ以前は幻想していた)私にとってはちょっと興ざめの部分もある。が、ファンタジーとして面白い。

 結局なんなのかといえば、あまり踏み込みたくない分野、興味があるからこそ踏み込むと溺れてしまいそうな分野、という再確認であったのだろう。「原子水母」も面白いけど。

update: 2000/07/05
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