書評日記 第579冊
脳ミソを哲学する 筒井康隆
講談社+α文庫 ISBN4-06-256444-0

 前回の書評日記を見ると 8/1 のものだった。随分、間が空いてしまったのは長野旅行に行っていたのと、やっぱりサボっていたためか。
 喰い道楽の日々によって1キロ肥ってしまった。旅館の料理は皿数が多くて困る。一日泊まって丁度の量が幾日も出る。長逗留したならばどれだけ肥えて帰ってくるかと思えば身も細り財布も細る。細るのだから良いのかといえばそうでもなく、お櫃いっぱいのご飯を一杯だけ食べてしまうのは心苦しく、胸一杯腹一杯となる。はちきれんばかりの腹を抱えて温泉に浸かる。渋温泉で九つの温泉を廻るのだが熱くて入っていられない場所が一か所あった。汗を掻き多少こなれた腹を抱えて旅館に戻る。ごろごろと「七年目の浮気」を見ながらこくりこくりと居眠りをする。ハレかボケかというくらい優雅な生活をして東京に戻る。やはり田舎が良いかといえばそうでもなく、都会が恋しいかといえばそうでもなく、やおらノートパソコンに向かうまでに幾日かが過ぎてしまっている。何か書かないと。
 ……と、いう書き方は小説で使う。小説は文学の主流ではなかった。劇作こそが文学なのだ。柳美里が小説の中に突如劇作を持ち込んだのは彼女の勝負場が小説の中には無かったのではなくて、劇作こそが文学の中心であったから小説の枠を超えざるを得なかった当然の理なのだ、と気付く。
 笙野頼子は方法論を持って小説を書いているのではなくて、信念を持って書いているのだ。同様にいけば、町田康もそうかもしれない。より自然に自分を体現できる場所が小説あるいは文学であれば何もかもができるほど時間があるわけではなし、ひとつ盲目的に突進してみようか、ということになる。葛飾北斎もそうだ。
 
 ともあれ「脳ミソを哲学する」となっているが、内容は科学に偏っている。ひょっとすると「脳ミソを科学する」の間違いだったかもしれない。あとで確認してみよう。
 筒井康隆はSF作家という名目だが、科学小説ではない。心理学が科学の範疇ならば科学的手法を用いたという点では科学かもしれない。フロイト精神分析が今の時代になって器質的欠陥を元とする精神障害を引き起こしていたとしても心理学の体系はそれほど揺るがないだろう。なぜなら古典物理学が量子力学にスライドしてきても古典物理学の現象は以前と変わらずに残っているからだ。
 「ジャーゴン」という用語自体がジャーゴンなわけなのだが、「脳ミソを―」ではそれらの専門用語(あるいは専門の名を借りたオタク用語)を逐一註を付けている。一般的な理系の人間ならばそれくらいは知っているワイ、と云いたくなる用語もつけてある。むろん、註ほどには詳細に知っているわけではないから全く役に立たないわけではないのだが、いまひとつ密度に欠ける気がしないでもない。
 そう、対談する相手はすべて科学者なのだが、最後だけ評論家――とある――立花隆なのだろうか。この部分だけが妙。また、最後の方にある物理学者との対談は絶品。筒井康隆の意見をことごとく否定してしまう。もちろん、素粒子物理学を崇めた当時の世論を批判する物理学者の意見が正しい。筒井康隆が一般的な意見――これは根本的に筒井康隆が理系ではないからか?――に依っているのかは不思議なところ。

update: 2000/08/18
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