書評日記 第620冊
皆月 花村萬月
講談社文庫 ISBN4-06-264781-8

  花村萬月の小説には暴力シーンが欠かせない。「ゲルマニウムの夜」を読んだが、教会と暴力との組み合わせは、一種反吐を思わせる嫌悪感を沸き立たせた。何故、このような組み合わせを小説の中であれ展開するのか、と〈意味〉を考えてみたくなったが、そのときは止めた。芥川賞受賞という冠が「ゲルマニウムの夜」にあるが、先駆的な文学とはいささか離れた花村萬月の手法に今ひとつ同意できないものが私にはあった。
  サドのようにサディズムを追及しているわけではない。何かを解決解放しようとするときに攻撃性を前面に出すことで驀進しようとする。これは現代社会が貧弱な男が蔓延する精子減少の時代の中でアンチテーゼを示しているのだろう。平和ボケと云われて久しく、バブル崩壊から不況の十年間の日本経済の中で、鬱積した感情を爆発させる、陳腐な言葉で言えば「癒し」と同じ意味をもたせることがこの小説にはできる。
 
 裏表紙にある「魂を震わせる『再生』の物語」を字義どおりに解釈すれば「再生」とは一旦死に至ってから文字通り再生する。死以前にある周り大変な影響力を持つ暴力=危機が主人公・徳雄のまわりに現れるヤクザであるならば、新たな母性の獲得がソープ嬢であるという心理劇が成り立つ。娼婦イコール神聖な母性の扱いを受けるので、諏訪が妻を探し当てた先にもソープ嬢・由美に立ち返るとしても何ら問題はない。
 実は前半にある主人公・徳雄が口を蹴られて七本の歯を折り入れ歯をするところで、すでに妻・沙夜子探す後半に繋がる筋は断ち切られている。ヤクザ・アキラが「どうしても姉を探す旅に出ないといけない」を連発するのは、アキラが妻・沙夜子の弟であるという立場と沙夜子を連れて逃げ出した同じ組の色男を追わねばならないという理由付けがあるものの、多少作者の意図を感じる。しかし、ちょっと強引ではあるものの、この「旅」に執着するところが村上春樹の小説を思わせなくもない。由美を新しい妻として迎え入れたならば、何も逃げ出した(あるいは自分を捨てていった)沙夜子を追う必要もないと思うのだが、そこは一般的な生活を営むことに対する未練なのか、いままでの安寧の世界を思い出すためなのか、由美とアキラを伴ってロードムービーするところはちょっと理不尽な二流アメリカ映画に似ている。
 
 徳雄の職業は橋をデザインする優秀な建築家であり、豪勢なパソコン――ハードディスクが2Gで百万円強というのが時代を感じさせてしまうが――を持つ「おたく」として定義されている。だが、私には「おたく」というイメージがこの小説から現れずに終わってしまった。「おたく」の持つ弱者というイメージを徳雄に負わせ片側にヤクザとソープ嬢というアウトローの世界を配置させて、平凡な「おたく」=徳雄=現代社会が、唾棄あるいは禁忌すべきアウトローの住人たちに救われるという逆転劇を作ろうという意図があったのだろうが、私にとっては徳雄が最初からアウトローに感情移入をしてしまって、何か当然のものが当然のところに落ち着いたという変化なしの気がしないでもなかった。もちろん、裏の世界を知らずに裏の世界に関わらずに一生を終える場合のほうが一般的なのであるから、アキラが噴出させる暴力は「おたく」にとっては完全に別世界になり、徳雄にとっては別世界に足を踏み入れる戸惑いを描写しているはずなのだが、花村萬月というレーベルがついているためなのか、このあたりの壁が全くないように思えてしまった。これは書き込みが足りないとか小説として不具合があるということではなくて、花村萬月というイメージから引きずられてしまうもので、それでも良いといえば良いし仕方が無いといえば仕方が無いということである。

 だから、いっそのこと「鮫肌男と桃尻女」のようにバイオレンス一辺倒にしたほうが「皆月」はすっきりするような気もするが、そうすると吉川栄治文学新人賞は取れなかったであろうし、阿刀田高の云うエロティシズムは「阿刀田高のエロティシズム」自体にちょっと疑問があるので承服しかねるので、これでいいような気がしないでもない。
 或る意味で逸脱のないところが不満なのであるが、よい小説というものはこんなものかもしれない。「悪い小説」を書いてほしいような気がする。

update: 2001/03/28
copyleft by marenijr