書評日記 第622冊
性幻想 河野貴代美
中公文庫 ISBN4-12-203631-3

 「ベッドの中の戦争」というサブタイトルがついている通り、男と女は裸になったときこそ政治的になる。ウーマンリブやフェミニストを自称しなくても男性社会の中にある唯一の男を選び取ったとしてもひと組の男女の間には別の立場で社会に組み込まれているからこそ、社会的な立場を男女のベッドの中にまで持ち込まざるを得ない、というサブタイトルである。
 
 詳細は置いといて読んだ感想を断片的に示そう。
 「性」に対する欲望は「幻想」によって支えられている、とする。男が女性に対して性向を働きかける自分の欲望と、女性が男の自分に対して持っている欲求との一致を「幻想」するのである。セックスをしている途中で相手の女性が別のことを考えている――特に別の男とのセックスを想像している――と男は怒るあるいは萎える。自分(男)が持つ欲求と同じものを相手に求める。これは束縛であり相手(女)の自由意志を奪う一方的な暴力でもある。セックス自体に限らず、自ら(男)の優位社会である男性社会の法則を男女の関係(たとえば家庭環境)に持ち込み、相手(女)へ現実社会に従う=男性優位社会の法則に組み込まれることを強要する。
 この理論はスライドして、同性愛、近親愛、性倒錯、マゾヒズム、不感症にも広がる。社会一般=男性優位社会に広がるポルノグラフィにも通用する。
 もともとが男性と女性との関係には優劣がある。その優劣に従って自己認識・自己実現の違いができている。社会的な地位を獲得するように動く男性は、男性優位社会の勝者となるべく切磋琢磨する。男性の場合、自分の中にある自己実現による価値観と男性優位社会にある地位・価値観が一致しているために、社会に立ち向かって「働く」ことは自己実現の一環として混乱を生まずに進めることができる。翻って、女性の場合、最初から社会=男性優位社会の異端者であるために、社会的価値とかの女自身の価値観とは一致しない。社会が男性にとって優位に働く以上、女性の外的な進出は男性優位社会に迎合する形でしか男性優位社会に認められないのは当然である。ので、女性の場合は内的な価値観を社会的に求められる。
 たとえば、エディプスコンプレックスにしたところで最初から男根を所有する男性にとっては自らが男で「ある」という存在感は再認識以外のなにものではない。しかし、男根を所有しない女性の場合は自らが男では「ない」という否定的な認識を与えられる男性優位の考え方でしかない。ためしに逆にいえば、ヴァギナが「ある」女が女性であり、ヴァギナが「ない」女が男性である、という言い方もできる。
 これらの性的な理論は男性の立場から社会=男性優位社会を眺めて解説しているために、女性にとってこの理論に乗ることは、男性の立場から否定的に与えられる女性の立場でしかない。しかも、男性が女性に持つ「幻想」であって、その「幻想」によって女性は男性優位社会の女性として形作られていくのである。
 
 ひょっとすると吉本隆明の「対幻想論」はこんな感じ――本は買ったがいまだ読んでいない――で展開するのかな、と想像してみるのだが、「性幻想」を読みながら思ったことは、インタビューを載せた部分が多い(実例を示すことは理論として欠くことのできない手順ではあるのだが)ために多少散漫な印象をぬぐうことができなかった。だが、その「散漫」さという言い方は私が男性であるからで、女性が読めば当然別の読み方ができるだろう。そして、全く別な「戦い方」があるのではないか、と思う。

 ひとつ蛇足を言おう。京王井の頭線で女性車両専用車ができた。痴漢対策が主である。そのとき、隣に座っていたカップルの女性が「でも女ばかり乗っている車両ってちょっと異様かもしれない」と話した。男のほうは無言であった。私は、不埒にもアウシュビッツ行きの車両を思い出した。彼女は無意識だったのか意識的だったのか、結果的には男性優位社会に迎合していることになる。ただ、男性優位社会自体の価値観を男性自体が変えてきている今において――リストラや転職などで男性の弱者を大量に造っている現象――は、二極化せずにできる道を選ぶことができるのではないか、と思ったりする。むろん、この考えは私=男の性から抜け出ていないのかもしれないが。

update: 2001/04/02
copyleft by marenijr