書評日記 第624冊
飛ぶ男 安部公房
新潮社 ISBN4-10-300810-5

 安部公房の遺作を図書館で借りて読む。
 「飛ぶ男」と「さまざまな父」が入っている。「飛ぶ男」は空を飛び、「さまざまな父」は透明人間になる。安部公房特有の劇場空間(これはナンシー・K・シールズ著「安部公房の劇場」に詳しい)はシチュエーションの特異さを得意とするのだが、「飛ぶ男」に関して云えばかの登場人物の変容が相対的に現れる単なる現象ではなくて、身内の中に突如として出現する内的な噴火を表している。
 これは「飛ぶ男」の中で括弧付きの『弟』が徐々に括弧なしの弟に変化していく登場人物の意識に現れている。
 「飛ぶ男」の文体は、前作の「カンガルー・ノート」に対して随分意識的でひょっとすれば彼が二十代の頃に書いた小説に似ている。無理矢理とも思える粘液物に模した感情表現は、後半にある「さまざまな父」では意図的に外されているためか、「飛ぶ男」の中では一層実験的な雰囲気を味合わせてくれる。何故そのような言葉の組み合わせを選んだのか、はこの小説を書き綴っていった著者・安部公房には愚問に過ぎず、前後の単語のバランスよりもひとつひとつの場面(シーン)へ一点集中した突発的な言葉の蠢きを記している作業のように思える。だから「飛ぶ男」の中では全体として統一されたストーリー展開よりもひとつひとつの場面を重視した映像の集まりであって、その映像から受け取れる読者の読むことへの快楽を「飛ぶ男」は純粋に刺激する手法に沿って書かれた、といえる。そうい意味では「意欲作」として彼の若い頃の作品と似ている。
 一方「さまざまな父」のほうは、「飛ぶ男」とは違って父と子の繋がりでありつつもの当然の関係としての崩壊があり、父が世間体で言うところの父親とは違い、嫌悪と疎外感が常である少年、という定位置を持っている。薬を飲み透明になる父親に対して持つ感情は、独立しても薄っすらと降りかかる父の視線のように肩越しにへばりつき、年々濃くなるような血筋のいやらしさを思い起こさせる。
 すべてが無になって因果関係をさかのぼって切り離されれば完全に安心できるような、絶対的な不安定さの中に少年はいる。
 その彼が浮遊するのは何の意味があるのか。
 と冒険的なシーンで「さまざまな父」は終わる。
 
 一種のオムニバス風連作ではあるものの、ひとつひとつのシーンは完結しない。連絡しあった場面と時間の中で劇的空間に幕が降りるまで続くと思われる。二本だけではまだ弱い。更に続けるつもりだったろう、と想像できる。漫画風に描けば、ひとつのシーンが他のシーンと重なり合って合成される常套手段である。だが、安部公房の持つ登場人物の規定の精密さが彼特有の記憶を示している。だから安部公房の作品になる。そのあたりが魅力なのだと思う。

update: 2001/04/04
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