書評日記 第639冊
動物化するポストモダン
東浩紀
講談社現代文庫
ISBN4-06-149575-5
動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 東浩紀と「郵便的」という単語はセットで覚えている。覚えているのだが、「郵便的」という単語がどうして東浩紀と繋がるのか、そもそも「郵便的」という単語は何を意味しているのか?は覚えていない。『存在論的、郵便的』は買ったし半分ぐらいは読んだような気もするのだが、う〜む、郵政省の民営化と関係あるのか?・・・なわけないけど。
 
 東浩紀は今度は「動物化」と結びつくのかもしれない。本書はいわゆるポストモダンの話で、終わり無き日常を生きるという感じで、さして「終焉」にならない日常生活を生き抜くための手法である。何故、私たちは日常生活を生きるのか、何故、死ぬまで生きているのか、という問いを持ったり、答えを探したりせずに、日常生活を生き抜く以外にないことがポストモダン的な生き方であって、そういう意味では「動物化」して欲望に忠実に生活する、という形になる。
 「欲望に忠実に」というと、あたかも金銭欲だとかセックスだとかという日経新聞朝刊に連載されていて石田衣良も読んでる『愛の流刑地』のようなものを想像する諸氏もおられるかと思うが、オタクにとっては「萌え」に忠実に生きる、萌え要素を捜し求めてひたすら萌えることに勤しむ、といえば分からんような、『ああ、女神様』の最新刊でベルダンティの言葉に「いや、そんなことを言えば失礼になるし」とひとり身悶えてしまう森里螢一のようなものなのである、おわかり?
 本書は二次創作、つまり漫画の同人誌に関して深く言及している。一次創作、つまり原作から派生して二次創作を得るという、共通の出所は原作の中にある、という従来的な考え方から、一次創作も二次創作も源流にひとつの「物語」を有していて、そこから情報をピックアップする形で一次、二次創作を作成していくという深層に「データベース」を持つという形を推奨している。後半でHTMLの見え方を説明したり、いわゆるDocView(データとビューの分離)を説明したりしているのだが、プログラマにすれば当たり前といえば当たり前の話で、社会学も流行り廃りがあるので、東浩紀がわかる用語で説明してある、ということなのだろう。ひとつの世界(学問)で単語が不足している場合、他の世界(学問)から単語を借りてくることが多い。このとき、本来の意味とはちょっと違った形で再定義されることがしばしばあるのだが、ある意味、コンピュータ用語としての「データベース」を詳細に知っていると、東浩紀の言う「データベース」とズレを生じることがある。これはいたし方が無い。このあたりは、社会学や哲学などではよくある話なのだから。
 
 で、ユング心理学的な深層心理を共通の流れとして、一次創作、二次創作、あるいは、見えない深層を二次創作(一次創作ではなく)が広げていくという発想は、『銃夢』に対する木城ゆきとの思い入れと、『銃夢』のファンによる『銃夢』の世界に対する思い入れとが微妙にずれてしまった事件を思い起こさせてくれる。よく言われることだが、原作者が原作を世に出した時点で、作品は原作者の手を離れ独自の世界をつくり、作品はひとり歩きする。そして作品に出会い読み感じた読者のものとなって再構成される。この双方から独立した「作品」の中にはなんらかの源流がある、というメッセージ性を持たせるのか、という議論にも繋がっていくことができる。
 まあ、ポストモダンなのでメッセージ性はないんだけどね。
update: 2004/12/08
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