書評日記 第36冊
快楽主義の哲学 澁澤龍彦
文春文庫

 俺は、今日から俺にすることにした。雉も鳴かずば打たれまい。昔の人はいいことわざを残してくれたものだ。俺にとって、今日は、どぶに片足つっこんで、思わず手を出した先に有刺鉄線を掴んだ日であったのだ。

 早速、今日の一冊はこれ。澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」である。あとがきを読むと、初出が「光文社カッパ・ブックス」で1965年になっている。実に20年ほど前の作品になるわけだ。
 さて、澁澤龍彦を読んだことのある諸氏諸嬢はお解りになろうが、澁澤さんは、こんな(カッパ・ブックスのような俗っぽい)ところから出版される人ではない。河出文庫でおどろおどろしく、妖しく、胡散臭く読者を毛嫌いするような雰囲気を醸し出しつつ出版され、それを夜中にこっそり(俺は、電車のなかでも読むけど)独り楽しむ作家であり、本である。しからば、なぜ、彼がこのようなところから出版されなくてはならなかったのか?、は、「快楽主義」を読んでもちぃーとも解らないが、そのポイントを指摘するならば(あとがきにもあるが)『やれやれ、ようやく50枚だ。あと200枚書かなきゃならんのかい!』に代表される『澁澤兄貴』の素顔(らしきもの)ではないだろうか。
 ま、ともかく、「O嬢」を訳したり「サド」を解説したりする澁澤龍彦のスタイルとは似ても似つかない。これは、のっけから「・・・ではないだろうか」なぞという、お伺いスタイルを使っていることから解る。ちなみに、このスタイルは最後の最後まで続けられる。ちょっとうんざりするが、そこはそれ、多少の校正が入ったとしてもレッキとした澁澤龍彦思想であるので、「あまり」疑いなく読むことができる。この括弧付きの「あまり」。誤解を恐れず読むべし、疑いをもって読むべし、自分を信じて読むべし、ということで「あまり」気にしないでよろしい。この「快楽主義」を読んで面白い(すくなくとも通読できる能力、ただし、他の澁澤文学を読み切ってしまった方は除く。)と思える人は、すでにその「快楽」とはなんぞや、自分の面白いと思うことはなんぞやということを知っているので、実は、「快楽主義」を読む必要がないのかもしれない。だが、その確認は、「快楽主義」を読むことでしかできないので、多少うさんくさいというか、鼻に付く文体ではあるものの(20年前に読んだ方は別であろうが)しかたがなく通読する価値はあるかもしれない。少なくとも、俺はあった。だから、今日から俺は俺にすることにしたのだ。
 「快楽主義」の本、実は、そのまま実行するにはヒジョーに危険である。社会的に抹殺されかねない。ただし、よく読んでみるとわかるのだが(だが、頭で「解った」ところで決して解ったことにはならない。それは、「快楽主義」を読むべし、読むべし。)社会的な立場として排除・排斥・毛嫌い・顰蹙をかったところで、快楽を求める彼の立場は、一向に変化しないのである。それは、何故か?彼の価値観(しかして、それは世間の言う「価値観」をとうに超えてしまっているので一般人には推し量れない。)はそんなところには無いからである。彼は、ゆるゆる・よれよれ・ふらふら生きることに価値を見出してしまったので、あーるよ、うん。

 というわけで、俺も、はあはあ・うんうん・ナルホドということになっちまって、『私』はどっかに飛んでいってもらうことにしたワケだ。ま、もともと俺は俺であったわけなんだが、あんまり『私』のカバーをかぶっていると、心底『私』になっちまうようで、だんだん自分が嫌になってしまった。んでもって、ついに2日間連続の失態。どぶに片足つっこむわ(nbkz野郎の「ある人」ってのは俺だし)、手を出した先には有刺鉄線(森山さんから、訪問リストお礼のメールを貰ったのだが、その返事で名前を間違えた(まあ、これは俺が全面的に悪い。)それに対して、『私』をびっくりさせるような返事が帰ってきた。いやいや、『私』はへどもどしてしまった。『私』はすんなり謝ってしまった。そして『私』は、著作権云々でこの「書評日記」のすべてのページがからスキャナ部分を消去しようとも考えた。出版社に許可を求めるメール乃至手紙をだそうかとも考えた。しかし、腹立ちはおさまらない。なんでだ、なんでだ、なんでだ、なんでだ。ってんで、「快楽主義」を読み直した。こんなときに、澁澤龍彦を読んではいけないことは解っているのに読まざるを得なかった。自分の文章が稚拙なのか悲しかった。理解してくれないのが悲しかった。理解しあえないのが悲しかった。涙が出そうなのに泣けない『私』がかわいそうでかわいそうでたまらなかった。だから、俺は俺に戻ることにした。なんで、俺が『私』のふりをしなくちゃならないんだ。なんで、『私』の失態のおかげで俺がいやな思いをしなくちゃならないんだ。なんで、『私』の好意は受け入れられないんだ。そんな、みじめになった俺を「快楽主義」は救ってくれた。だから、俺は澁澤龍彦の言うとおり、俺は俺に戻ることにした。羊の皮なんてかぶってやるもんか。著作権なんにびくびくして、書評日記なんかやってられるか。俺はいつまでたっても俺だし、俺は俺である限り、全責任を俺がとることが出来る。でも『私』の分まで背負い込むのはもうたくさんだ。28歳の男が自分のことで泣くのは非常に恥ずかしいことかもしれない。でも、ここ何日間か、素直になれない『私』に俺はなさけなくて、なさけなくて、なさけなくて、何も言えなかった。ドロドロしたところが、嫌になって、求めたところが森山さんのところだった。森山さんには悪いけど、『私』にとっての仕打ちは、すごいタイミングが悪かった。ものすごいカウンターだった。頭がぐらぐらした。)があった。
 澁澤龍彦の本を読んで(ほんとは、こんなときにこんなな本を読んじゃいけない。わかってる。とてもよくわかっている。でも、読まざるを得なかった。こんなものにでも助けを得ないと『私』そして俺はやりきれなかった。)、すっきりした。なにもかも、とはいわないけれど、かなり整理がついた。こんな日記つけて、公開して恥ずかしくないか、と俺は思うのだけど、こんな文章でも書かないとやりきれなくて、やりきれなくて、やりきれなくて、たまらない。
 『涙は単なる浄化作用だ。だから私は涙を流すのは嫌いだ。』というのは、高校生の頃の日記にあった一文だ。このときも涙を流しながら、書いたような気がする。大人はずるい、大人は解ってくれない、大人は解ったようなフリをする。そんな意味では、俺は28歳になっても大人になれない。人を信じて、人を理解したくて、人になにかをしてあげたくてやっている行為をはねのけられるとき、『私』はへどもどしてしまう。そんな『私』は嫌いだけど、俺にとって非常にいとおしい部分であることは確かだ。

 なんか、ずいぶんすっきりした。野原さん、俺はこんな俺ですが、いいのでしょうか。藤間さん、「今後に期待」とかあったけど、いきなし俺に変わってしまっても、俺に期待してくれるでしょうか。森山さん、メールを貰ったとき、俺は心底びっくりしてしまった。へどもどしてしまった。理解しかされていないことが悲しかった。でも、もう大丈夫です。俺は俺に忠実になることができます。そして、nbkzさん。『私』は、あなたの文章を理解していると思った。かつ、好意的に解釈してくれるものだと信じてしまった。世の中には悪いやつはいっぱいいるはずなんだけど、『私』かつ俺にとって、インターネットってなんかいいやつばっかにしか見えないのは『私』がおお甘ちゃんだったからなんだろうな。俺から『私』に代わって感謝します。
 あとその他の皆さん、俺は俺になっちまったんで、『私』の方がよかった人は、どっかにいっちまってくれ。別にな、ま、どーでもいいや。俺は俺の方が性に合っているので、俺好みだけでいいや。(あ、メールの方も俺になるんでよろしく。)

 そうそう、船井へ。俺が俺になったもんだから、舌出してにやにやしてると思っているだろ。それとも、途中で嫌になって読むのをやめちまったかな。事実、今の俺はにやにやしている。ふふふふふ、ざまーみろ。俺は俺にはなったけど、本当の俺はこれからなんだからな。

 消せばいいのに、わざわざノッける俺。
 スキゾな露出狂だよな。まったく。(パラノと間違えちまった、あほか、俺は)
 おそまつ。

update: 1996/07/03
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