書評日記 第40冊
野鴨 イプセン
岩波文庫

 黒柳徹子の帯に引かれて買った本。俺は、いわゆる外国の文学小説というのをあまり読まない方だ。それでも、まあ、「戦争と平和」とか「白鯨」とか「白痴」とか、ときどき意識して買うことがある。もっとも、あくまでも知識として読むだけで(という態度で始めから向かっているのだから、「素直」な感想なぞ浮かぶわけがない。すべてが、なんらの分析につながってしまう。)それらの文学に溺れることはあまりない。日本の文学が俺にとってまだまだ面白い分野であることは確かだし、昨日買った原田宗典の「何者でもない」は、俺にとって新しい出会いであったことは、事実である。(ま、それが、日々の現状にマッチしていたにせよ、なんとなく避けていた作家を手にするときの勇気と戸惑い、そしてそれを良い意味で裏切られたことは、素直に喜ぶべきことなのである。)
 ま、そーいうことで、今日はあまり深読みはしなかったけれど、イプセンの「野鴨」を送る。

 この日記の冒頭にも書いたけれど、黒柳徹子の言葉を信じて、この本を買った。もちろん、イプセンなる名はうすうす知っていたし、「野鴨」という題名も、どこでだか知らないけれども聞いたことはあったので買うことにした。
 あいにく、イプセンがどれほど有名な作家であるのか、それとも、無名の作家であるのか、俺にはわからない。資料がなさすぎる。しかし、そのような予備知識がなくても、俺にはこの本の内容が理解できたし、この作家のほかの作品を読もう(まだ、読んではいなけれど)と思った。ただ、素直な感想を述べさせて貰えば(それが、小学生程度の感想であったとしても)なんか、ちょっとラストの残酷さはどうか、と思うのはこの本のなんたるか、この作家のなんたるかを理解していないからなのだろうか。

 まず、形式から入ると、「野鴨」は戯曲になっている。昔から戯曲の形式は苦手なのだけれど、井上ひさしや、かんべむさしに鍛えられたおかげて、そのような無用な嫌悪を覚えずに(まだ、ちょっと苦手ではあるものの)読むことができるようになっている。そもそも、戯曲というものは(当然ではあるが)芝居のために書かれたものだから、人が演技(むろん、舞台上では、「現実」が作られるのだが)を想像して、その声や身振り、光、音、ざわめき、におい、空気の振動、などなどを気にしながら読む必要があるのかもしれない。
 ちょっと、脇道にそれるが、諸君諸嬢は本を読まれるとき、その声を聞くだろうか。本の中で語られる物語を直に自分の耳で聞くことができるだろうか。私は、そういう意味では、幾十人の役者を自分の中に(または、外に)飼っている。彼らは、俺が本を読むときに語りかけてくれるし、演技してくれる。情景が浮かぶ。音が聞こえる。においがする。同じく、この「書評」を書くときも、舞台を作る。語りかける。雰囲気を醸し出す。ことを考えている。これらの作業は俺にとって、不自然なことではないのだけれど、その昔、英語の講師が「頭の中で声が聞こえるなんてそんなことはない。」と言い切っていたことが、いまになっても気にかかる。あいにく、弟に聞いたところで、俺と同じ環境で育っているので、「聞こえる」のは当然なんだけど、これは本当に当然のことなのか?
 話を元に戻そう。そういう舞台設定をしてから、俺は、この本の中で遊んだ。ストーリーとしては、非常に簡単なのだが、「ある男がやってきて、家族の真実を明かしてしまう。このために、この家族は崩壊する。」というものだ。ま、ハッピーエンドじゃなくて、悲劇によって幕が降ろされるのはいいとしても、「真実」というものはそれほど、冷たいものなのだろうか、と、知ってはいるものの、自問自答したくなる。あいにく、俺は、前々から、「真実」というものが非情なものであり、「真実」をしらない方がよいときもある、ということを痛いほどよくわかっている。「真実」=「幸福」では、決してない。だから、「幸福」であろうとすれば、あたたかいところに居たいと思えば、わずかばかりの「真実」なぞいかばかりでもないことは、承知している。承知しているのに、こんなものを書いていてはいけないな、と思うことがある。もう一度、言う。「真実」とは「不幸」のもとなのだ。

 俺はいまひじょうに覚めている。にやにやしている。世の中に「不幸」をばらまいていることに、得意げになっている。

 以上の文章、なんの含みもないことをお断りしておく。ほんとうに何も含みがない。俺になにかがあったわけではない。
 原田宗典を読んで、ちょっと書いてみたくなっただけ。

 そうそう、あなたは、2000年と2001年とどっちを祝いますか?

update: 1996/07/08
copyleft by marenijr