書評日記 第91冊
M/Tの森のフシギの物語 大江健三郎
同時代ライブラリー

 さて、本日記も100冊、いえ、101冊目前となりました。あと、10冊というわけですが、「感慨深い」というよりも、俺にとっては「単なる通過点」にすぎません。それでも、「無意識」的に、100冊の完成というか、そういう「世紀末思想」を意識しているのか、それとも「満月」の御導きなのか、単に「情緒不安定」になているだけなのか。なにか、最近、買う本&読む本は昔なつかしのものに手を出しています。再読乃至、学生時代に買いそびれた本、図書館で読んだ本を買っています。
 紹介した本をざっと眺めてみると、一定の傾向があるように見えますが、諸君諸嬢は解るのでありましょうか。ま、単に「濫読」傾向の激しい読書家の本棚というのが単純な答えの方ですが、複雑な答えは、また、これは、難しいのです。そうですね。「オリエント急行」でのポアロの言葉です。それは、おいおい解ってくるかもしれません。少なくとも、最近、俺にはわかりました。かなり、はっきりと。

 「語る」と書いて「ナラティヴ」と読ませる本、それが、大江健三郎の「M/Tの森のフシギの物語」です。俺が、この本に出会ったのは、浪人の時でありました。とある大阪の大学の受験のために買い、行きしなの新幹線の中で読んだ本がこれです。確か、大江健三郎にあたって2冊めだったと思います。思春期というか、受験という重圧の中での一つの安らぎを得ることが出来たような思い出があります。「国」というキーワードを自分に刻みました。
 2度めに読み返したのは、大学院の受験直前だったような気がします。受かったの落ちたという、トンでもない、大ぼけ人生を送っている俺ではありますが、ま、ここでこーいうことをやっていることを考えると、人生何が幸いするかわかりません。読み返した時、「障害者」という言葉に誤解をしていたことを反省した覚えがあります。
 そして、3度め。ル=グイン著「夜の言葉」の次に読み返しました。この2冊は俺にとって非常に大切な本らしく、乱雑な本棚の中にあっても、なるべく取り易いところにある。「無意識」的にそうしているのか、さだかではありませんが。今回は、「語る」というもの、そして、「トリックスター」という言葉&行動が印象的でありました。

 「語る」ということ。このように、毎日毎日、誰ともなく(少なくとも、自分に向かって)語っていると、だんだん自分というものが見えてきます。
 そうそう、最近気付いたのですが、この書評日記、誤字&脱字が少なくなりました。変な、括弧で括られた言い訳も無くなりつつあります。何故なんでしょうか。「リハビリ」、「自己形成&確認&発見」という言葉を使って片付けてしまうのは、簡単ではありますが、ま、そんな所ということにしておきましょう。ややこしい話はヌキにして。

 話を元に戻すと、「M/T」では、「語る」という言葉が重要な位置を占めます。いわゆる、「森の中で起こった神話を子供に語り伝える」話しです。
「とんとある話。あったか無かったは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ。よいか?」「うん!」
 この「フレーズ」が幾度となく出てきます。
 大江健三郎が難解であると、よく云われますが、ごく普通に、そして、素直に読めば、なにも難しいことはなく、すんなりと理解できると思います。ただ、何度となく読み返して思うのは、その「深さ」でしょうか。「深遠さ」、それを一度で理解しようとするのが、間違っているのかもしれません。幾度となくゆっくりと読み返し、自分の顎で噛み砕くことによってでしか、味を得ることはできないのかもしれない。そんな感じがする作家です。

update: 1996/09/05
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