書評日記 第120冊
胸の金色 渡辺多恵子
小学館

 そう、俺の職場は渋谷の道玄坂にあるんですけど、
降りる駅は渋谷の手前の神泉駅なのです。
んで、そこのトイレなんですけど、
男子トイレが右側、女子トイレが左側になっています。
普通はね、左側が男子トイレだと思うのですが・・・
そう、思わず、下痢ピーで女子トイレに
駆込みそうになるサラリーマンは、俺です、はい。
ちょっと、なんとかならんのでしょうか、あの配置は。

 大学の頃からずーっと俺のテーマなんですけど、
男女が並ぶ時、男性が何故、左なのか、女性が何故、右なのか?
その頃は、男性は女性を守るべきだから、右手をフリーにしておかなくては
ならないのじゃないか。また、暴力的な右手を封じる象徴として女性を
男性の右側に配置するのではないか。なぞと考えておりました。
 んで、ちょっと、上のトイレの件で気になったので、
統計を取ってみました。ま、統計とは云っても、俺が見たカップルを
見てちょっと数えてみたわけなんですけど。
正確に数を数えたわけではありませんが、
5対1の割合で、男性が左側、女性が右側ですね。
この比率は何を意味するのでしょうか。
しばらく考えてみたわけです。
 と、そうそう、U君の例を思い出したわけ。
彼は、左手で彼女を捉えていたわけだ。
そう、男性が右利きか左利きかによって、女性の位置が決定するわけですよ。
尤も、女性優位のカップルの場合もありますから、女性の利き手によって、
決まるかもしれませんが、普通は、男性の利き手の比率がそのまま、
カップルの男女の配置となるわけです。
だから、大抵は、左側に男性が居て、右手で女性の手を握るわけ。
そう、うちの両親の寝室の配置もそうなっています。
つまりは、手を握るという「能動的」な行為に出る男性としては、
利き手で「受動的」な行為を求むる女性を掴むのが自然なわけですよ。
 なんだ、やっと解答が得られたみたいで、すっきりしています、俺は。
これで、心おきなく、神泉駅のトイレの配置は逆だ、と云えるわけですね、はい。

 えーと、だんだん、おざなりになりつつある、本日の一冊は
渡辺多恵子の「胸の金色」(小学館)です。
あ、思えば、これも「渡辺」さんなのか、むう、俺の人生、
「渡辺」さんが多いです。
 それはさておき、内容ですけど、えーと、なんてことはない、
ごく普通の少女漫画の中学生の「恋物語」です。
いや、ま、28歳のむさい独身男性が読んでいると、
ちょっと異常かもしれないけど、
いわゆる、中学生達には読んで欲しい漫画です。
 渡辺さんはね、いわゆる、めげない女の子が主人公の話を多く書きます。
いろいろ、自分勝手にバタバタやって、そして、失敗したり、落ち込んだり、
どつぼにはまったりするけど、一生懸命、自分で立ち直って、相手の事を考えて、
そして、明るく生きる、そういう女の子をたくさん描きます。
「ファミリー」もそうだし、先に紹介した、「はじめちゃんが一番」もそういう話です。

 女性諸嬢よ、自らの意思で考えなさい、自らの考えを実行しなさい。
そうすれば、貴女の人生は、貴女のために開けるのです。
貴女が、何をしたいのか、何になりたいのか、何を幸福と思っているのか、
よく自分の頭で考えて下さい。じっくりと、急がずに考えてください。
そして、「女性」を武器にしても良いから、この男性社会に挑戦して下さい。
男性社会の暴力と不条理と矛盾に満ちた、この社会に何か、変化をもたらせて下さい。
俺は、「男性」でありますが、そういう「女性」、いや、女性に限らず、
そういう「人間」を応援します。そういう「人間」を俺は好んでいますから。
だからこそ、自分の頭で考えなさい。あなたの一度きりしかない人生は、誰のものでもない。ただ、あなた一人のものなのです。

 あ、そうそう、この本の後ろにおまけ漫画があります。ここで、渡辺多恵子さんは
非常にいいことを云っています。彼女、同人誌を作ったわけです。
んで、それについて彼女が思ったことなんですが、

 多くの本には「ゲスト」と呼ばれる人のページがあって、必ず描かせてもらってうれしいだの、そのほんの作者の大ファンだのと書いてある。
 当然、描いてもらった側も「ゲスト」をほめちぎる。
 どう見ても手ヌキのかたまりのような作品に対してさえ、それが掟かのように必ず讃え合っている。
 同人を否定する気はもちろんありません。

 でもプロの作家にとって、これほどコワい落とし穴はない気がする。
 なんの責任もなく読者は全て同志(おともだち)という天国のような世界は、楽しくて楽しくてたまらないかわりに作品の進歩や成長も遠ざけてしまう。

 いや、ま、俺の肝に銘じておこうかな、と思って書いておきます。はい。

update: 1996/09/09
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