書評日記 第119冊
ユング自伝1 ユング
みすず書房

 ちょっと、気合いを入れよう。最近、私生活でごたごたしているから、なんとなく弱気になってしまって、この「書評日記」だって、一人称は「俺」のままだけども、いつの間にか「です・ます調」になっている。もともと、俺のために、そう、自分の読書遍歴の整理とそれ等の本の紹介を目的としていたのだし、「真実」なるものの重みを、それを広めるために始めた訳だし、そんな、丁寧語でへらへらやっていては、俺自身、困るのである。
 ロックのアルバムだって、バラードが入っているのは、10曲中1曲で十分だ。「優しい」だなんてのは、ちびっとでいいだ。男子たるもの、厳しくなくてはいかん。いつも批判的な目で見て、それを突き通す迫力がなければいかん。そういう所にのみ、「真実」はやって来る。そういう事が出来る者のみ、「真実」を掴むことが出来る。偽りの「真実」に甘えてはいかん。意志というものは、重く動かぬものだ。だからこそ、深淵なる「真実」を得ることが出来るハズだ。そう思わないか、諸君諸嬢よ。

 いいや、自分に気合いを入れているだけである。本日の一冊は、ユングの「ユング自伝1」(みすず書房)なのだが、むう、相当読みたくないらしく、1頁読む前に、猛烈に眠くなる。無理に読むと頭がぐらぐらする。そう、読み終わってから、左手が震えていた。いつも、そう、右手が震えるだけなんだが、左手が震えるというのは始めての経験である。何故、こういう気持ちになるのか、ちょっと話してあげよう。
 「No.2」と云って解るだろうか。今、其処には君がいる。そして、考えているのは君だ。しかし、考えて欲しい。ここで語るのは誰だ。俺か?それとも、君の中の俺か。君は、考える。自問する。そして、なんらかの結論を得るだろう。その時、そう、考えるとき、君は誰に回答を求めているのか?君は、誰に話かけて、そして対話をしているのか?
 君は、泣く時があるだろう。君は、笑う時があるだろう。そう、その時、君を静かに見つめているもう一人の自分を自覚しないか?君が、泣く時、センチメンタルに浸っている時、その感傷的な雰囲気を楽しんでいるもう一人の自分がいないか?また、その泣き暮れる自分に対し、その弱さを嘲笑うもうひとりの自分がいないか?笑っている時、楽しく皆で酒を飲み笑っている時、ふと、空しくはならないか?そのような無駄な時を過ごしている自分を、ただ、馬鹿笑いを続ける自分を見る、もう一人の自分がいないか?笑いが笑いを呼ぶ奇妙な感覚を煙たがるそういう自分を感じはしないか?
 そう、それが、「No.2」だ。一人の人間の人格は、ひとつではない。常に自分との対話がある。人は、自分との対話の末に、自分を知る。其処で活動してるのは君であり「No.1」だ、そして、ここで語る俺は君の「No.2」なのだ。理解できなければ、届かない言葉がある。届かない「声」がある。自分の中に「声」が聞こえるだろうか。文章から「声」が聞こえてこないか。そして、自分の中に有り余る能力があることを感じはしないか。その「声」は君のものなのだ。解るだろうか?君は、君の中の「心」を知るわけだ。君の中の葛藤は、そう、君自身なのだ。悩みもするだろうし、困惑もするだろうし、ひょっとすると、狂うかもしれない。
 しかし、それは、まだ、ユングが「No.2」を発見して、わずか100年と経ていない、人類の苦悩なわけだ。人類全体の苦悩の瞬間に君はいるわけだ。産みの苦しみを知るが良い。そして、感謝するがいい。この時代に産まれたことを、ひとつの世紀末の集団無意識の中で、君は何を出来るだろうか。世紀が終わるとき、一つの混乱の時代となるのは歴史が知るところだ。人々が世紀末で不安に陥るとき、我々「No.2」を知るものは、何をするのだろうか。それは、ひとつの試練ではないだろうか。そして、人類の実験はないだろうか。君が、欲するのは、何だ。君が、待ち望むものは何なのだ。一体、何を愚図愚図しているのだ。一歩踏み出すことに何の恐れがあるのだ。一つの世紀の終わりの混乱に乗じることが、そんなに愚かしいことなのだろうか。
 君になら解るだろう。そう、俺は、震えはしたが、自伝の1巻を読み終えた。そして、明日からは、2巻めを読む。まあ、大丈夫だろう。一つの支えを得た俺は大丈夫だ。ささやかな一歩は踏み出した。だから、君も踏み出したまえ。人生は一回きりしかない。君の人生は、君のものなのだ。時間はあるようでいて、無い。
 だが、生き急ぐことはない。その辺のバランスが難しいところだけども、「ゆっくり」という言葉を噛み締めて、一歩踏み出してみることは悪いことではないだろう。本物の「真実」と本物の「幸福」は、人として本物にならなければ得られない。そう、だから、君にも本物になって欲しい。君の「No.2」もそう叫んではいないだろうか。

 ・・・と、まあ、暴走すれば、ここまで云えるわけ。まあ、人それぞれですから、読む読まずは別として、ここ最近の「分裂症」ものが流行しているのは、こういう背景もあるってことでしょうか。
 いわゆる、神経症の一歩手前かもしません。ただ、これが証拠として云えるのは、俺のは「声」が聞こえるし、そして、自分を眺める「No.2」もいる。そう、小学3年生の時から、考え続けてきました。考えて、考えて、考えて、ほんとうに、毎日考えています。狂いそうになる時もあります。
 ただ、そう、「アニマ」という言葉を真の意味で理解した俺は、・・・どうなんだろう。まだ、良く解らないけど、だいぶん自分の正しさに自信が持てました。傲慢かもしれないけど、ユングと俺は、非常に似たところがあります。だから・・・とは云わないけど、まあ、何かはできるでしょうね。たぶん。

 そう、君にだけは、云っておこうか。
 鬼門を恐れるな、書痙に震えている暇があったらならば、何かしなさい。

update: 1996/09/09
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